10000! | ナノ

雲一つ見当たらない秋晴れの日だった。鰯雲が大漁だと思いながら、二階堂は石造りの階段を下る。寺の子たる二階堂は毎日この長い階段を行ったり来たりすることが強要されているが、七歳児にこれはなかなかに苦行だと二階堂は思うことがある。何を思ったのか全部で108段あるこの階段を下り終えた時に忘れ物に気づいたときにはまったくげんなりするし、夏休みの前に朝顔の鉢植えと道具箱、そして背中にランドセルと防災頭巾を抱えたままこれを登らねばならないと思った時には半ば絶望しかけたこともある(が、実際には律儀に登ることはせず、上に登った狐と荷物を入れ換えるという策を思いついて、難を乗り越えた)。道ゆく猫にイタズラを仕掛ける狐を視界のはしに捉えながら、二階堂は歩道の線を踏みつける。ほとんどカラのランドセルががらんと揺れた。右手はいつもと違って忙しい。一昨日二階堂に突然話しかけてきた少年に借りた傘が陣取っている。ところどころキラキラ光る装飾のされた緑色の傘以外はほとんどいつも通り、死んだ表情筋を全く機能させずに歩く蝋人形のような二階堂だったが、しかし軽く頭を抱えたくなるほど悩んでいた。
二階堂はこの右手の傘を、返さなくてはならない。
別に難しい問題ではない、ただ返せばいい、それだけのことだと二階堂は自分に言い聞かせる。しかし相手が問題だ。なにせ今まで誰も目視出来なかったこの狐を見ることが出来る人間、それも相手は二階堂に興味津々ときた。傘を借りねば帰れなかったからには助かったものの、返すということを深く考えなかった自分を軽く殴ってやりたいと思うくらいだった。
傘を貸してきた少年は花京院という華々しい苗字を持っていて、昨日だって二階堂について回ることを決めたと言わんばかりに話しかけてきた。きっと二階堂の狐が珍しくて仕方が無いに違いない、二階堂はそうふんでいる。きっと今にこの狐が向こうにしでかすであろうイタズラに辟易して、自分を忌むに違いない。だから、普段から自分に関わろうとする人間に決して好印象を抱かないようにと誓っている二階堂にとっては、花京院は煩わしいことこの上なかった。
しかしそれが借りものを返さないという後味の悪いことをする理由にはならないから問題だ。
どうしよう、どうしよう。そればかり考えているうちに、そこまで長くもない通学路は終わりを迎えて、昇降口。
そうだ、下駄箱の名前が書いてある前に、立てかけておけばいい。二階堂はようやっと思いついて、隣の隣のクラスの下駄箱まで、寄り道することにする。
かきょういん、のラベルを探して、右往左往する。一番右端の上の方にあるかと思ったのだけれど、見当たらない。そういえば転入生だったんだと思い直して、一番左端の一番下から三段目に見つける。よし、ここに傘を立てかけてしまえば、任務完了。
と、その筈だった。

「二階堂さん、おはよう」

後ろから聞こえたその声に、とびあがるかと思った。二階堂の眉間にぐっと皺が寄る。振り返れば、人の良さそうなにこにことかわいらしい笑顔を浮かべた少年が立っていた。少年の後ろにはきらきら光る緑色の人形が浮かんでいて、二階堂は少し目を見開く。けれどそれには何も触れず、無言のまま花京院に傘を差し出す。

「ありがとう、乾いてるね。干してくれたの?」
「……」

二階堂は何も言わないまま踵を返して、自分のクラスの下駄箱に向かう。別に冷たくあたったわけじゃないさ、と、自分に言い聞かせるようにして、早足でその場を離れた。ユノーが袖を引くのが煩わしい。自分の教室に向かって、一番後ろの窓際の席。頬杖をついて、窓の外を眺めた。上級生に水を貰ったのだろう、コスモスの花がきらきらと光を反射していた。
微笑む花京院の屈託の無い笑顔が、二階堂はどうにも苦手で仕方なかった。




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