遺物 | ナノ
彼女の奏でる音は繊細で、雄大で、軽快で、厳粛だった。
力強い命の鼓動だった、とでも、安っぽく形容できるかもしれない。
それでも彼女の描く「展覧会の絵」は、僕の知ってるこの寒々しい風土にあまりにも似ていて、それなのに、あまりにも優しかった。
「どうしてそんな風に弾くの」
そんなにうるわしく弾かれたら、そんなに美しく弾かれたら、僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまうよ。
「ムソルグスキーは優しい人だったんですよ」
彼女は、南国の風よりも心地よい暖かさを身にまとって、いつも僕にそう答える。
そんなふうに言われると、僕はもう耐えられなくなって、まだ最初のプロムナードなのに、泣き出してしまうのだ。
彼が弾いたときは、もう少し不器用な、骨っぽい音だったはずなのに。
(名前はピアニストだった。フランス君のところの、ナントカ国際とか言う有名なコンクールで優秀な成績をおさめた、今注目の若手なんだそうだ。
僕はその時、そんなこと知らんこっちゃなかったし、今だってそのコンクールの名前なんて覚えてない。
ただ、あの時、あの瞬間。
そこそこ高級なホテルの、人気の無くなった後の、ディナーのためのサロン。
僕だってたまたまとおりがかっただけで、それでいて、彼女だってたまたま鍵盤に指を乗せた瞬間だったのに。
それを奇跡と言うのか、それとも単なる偶然というのか、僕は知らない。)
展覧会の絵
(最初のプロムナードと、小人〈グノーム〉)
以前僕は偶然にも、展覧会を歩いたことがあった。
彼女はバラバラと指を動かして演奏するのは、あの小人がモチーフにされた、子供の玩具のスケッチ。設計図。あまりにも興味がなかったから、僕はその展覧会はほとんど素通りしてしまったんだけれど、それをあの男は食い入るように見つめていたっけなあ、なんて思い出す。
そういえば彼は、いくつかの絵をああやって眺めていたんだ。いくら眺めても穴なんて空くはずがないのに、まるでそれを信じていたかのように。
「Gnomeは、 土の中に住んでいるこびと」
「醜い容貌でグロテスクな欲望の塊なんだよ」
君はあまりにも優しいから、そんなんじゃきっと、あの小人に喰われてしまうだろうね。
僕は皮肉交じりにそう嘯くんだけど、名前は苦笑いした。
「人間には負けますよ」
「それに、彼らは、子供たちに愛されているもの」
ラヴェルはああしておどろおどろしくしてしまったけれど、と彼女は少し残念そうに言った。
それから僕の目を見て、哀れな小人のストーリーを語り出す。
「本当は優しい心も持っていたんです」
「でも身と心を霧の中に隠していくうちに、 」
何が本物なのかわからなくなってしまった。
それでも欲望だけが先行していく。
恐れだけが常に背中を見張っていて、だから、世界に自分が一人きりだと思ってしまったんですよ。
だから最後は耐えきれなくなって、
霧の中を駆け回って、
弾けるみたいにして、
ついには消えてしまったんです。
彼女は最後のアルペジオを、小人の最期だとでも言うのか。
「君はとても残酷だね」
「ありがとうございます」
別に褒めたわけじゃないのに、彼女は目を細めてうれしそうに笑った。
(僕はまた、ムソルグスキーを思い出す。
彼が食い入るように見つめていたのは、こびとが最期、どこへ消えたのかを突き止めたかったからなのかもしれない。)
『展覧会の絵』は一番好きな曲だったりする。