遺物 | ナノ

彼は、ひとより幾年も生きているという。
何年なんてものではない。何十年、何百年も生きているんだという。
最初は何を言っているのか、理解しかねた。
けれどそれは事実であり、言葉通りの意味なのであった。
信じる他なかった。
だって彼は時折途轍もなく何と表現したらいいのかわからない顔で私のことを見つめるものだから。
それは×××大佐だとか、×××様だとか、そういった、私たちのいうところの、「歴史上人物」とやらと一緒に笑顔で写真に写ってるだとか、下手すると肖像画に描かれていたりするその現物を見せられるよりももっと説得力のある表意だったし、それでも心苦しそうに笑う彼はずっとこうして生きてきたのかと私に思わせるには十分だった。
いまでは、それが意味していることも、理解している。
なんてついていないのだろうだとか、そういうのはない。
私は国に恋をした。そしていつかこの感情もこの思い出も風化して無くなり、私の肉体は朽ち果て、けれど彼は生きているだろうという、一見バカバカしい御伽噺のような仮説なのであった。

「だから俺はいつかお前を忘れちまうだろうし、これが最後の恋だなんて思えないんだ」
「だからどうしたの」

そうドライに返答する名前に俺はどうしたらいいのかわからなくなる。
彼女はいつだってドライだ。仕立て上げのワイシャツのようにパリッとして、洗い上げの柔らかいタオルのように柔らかい。そしてそのどちらにも当てはまるように純白、清潔、潔白で、これでもかというほどにあっさりしている。
名前は「私だけを愛して」だなんて言わない。何よりもリアリズムを生きる女だった。だからこそ御伽噺のような俺を好きだなんていうのはきっと、彼女にとっちゃ邪道な話なのかもしれなかった。俺は彼女からあいしてるの五文字を聞いたことはなかった。
何年、いや何十年、ひょっとしたら、何百年。
俺は名前を忘れないだろうか。それはわからない、と答える他なかった。今まで俺は他の人間を愛した事などなかったし、そのつもりもなかった。女がいなかった訳ではない。でも愛のベクトルというものはいつも心に重くのし掛かるもので、俺は堪えきれずに逃げ出してきたのだった。
あの質量の無い概念がどうしてあんなに重いのか、俺は未だに理解出来ない。
人間のそれがあんなに重いのだ。国の俺に愛があるとすれば、それはいつか名前を押しつぶしてしまいそうで、俺はどうしたらいいのかわからなくなる。
いつだったか。名前は俺が国だということを理解すると、一つだけ、質問をした。

「愛というものは───」

いつの時代から在ったのか、ご存知?
あの時アーサーが苦しげな顔をしたものだから、私は彼にとってその概念は一種のタブーなのであることを理解した。だから私は彼に対してあいしてるの五文字を言わない。言うつもりも無い。それでいいのだ。いつか彼は私を忘れる。私だけを愛せとも思わない。アーサーが普通の人間でも、そうは思わないだろう。愛というもののベクトルは重い。言葉にしただけで、重くのし掛かるから、心にとどめておくだけで十分なのだ。
ただ。
一つだけ、御伽噺のような理想がある。

「私はこれから、遅かれ早かれ、死ぬでしょう。死んだら生き返ることはないけれど、生まれ変わることはあるでしょう。それでそのとき人間だったら、前世の記憶がある時と無い時とあるでしょうけど、どちらにせよ私がね、また、アーサー、あなたを見つけだして、恋をしたら、それはなんて素敵なことかしらね」

既に俺は、かれこれ何十年、いや何百年、彼女にしか恋をしていない。








軽い女と重い男



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