小咄 | ナノ

(残念な男の話が続きました)



「アレハンドロォ」

彼のことを愛する女はみんなこぞって彼のことをそう呼んだ。もちろん本当はアレハンドロ、だなんて奇抜なミュージシャンの曲名になるような、そんな洒落た名前ではない。彼の名前は苗字・名前。苗字、だなんて、どこにでもいるありふれた名前、というには少しどこか抜けた様な、なんともつかみ所のない、中途半端な名前だ。

「ベネ、もう一回、そういうカンジに呼んでみてよ。もうとびっきり甘ったるいカンジでさ」
「アレハンドロォ――」
「そうそれ!ディ・モールト!激ヤバ!!」

ねっとりと耳元にからみつくような声で、あまったるい香水のような香り――それはいわゆる、ホルモンという物質に近いものだ。「"卵"が"種"を呼び寄せるために必要な、そりゃもう、とびっきりセクシィなやつ」と、彼は揶揄したことがある――を散蒔きながら、その女は苗字の首もとに絡み付いた。苗字はその香りを鼻孔一杯に吸い込むと、少し目を細めて笑った。ろくでもない優越感だ。彼は"卵"が植え付けられた女を、つまるところの今日のオカズを、力一杯に抱きしめる。彼はこの美女を愛していない。けれどこの美女は、苗字に夢中だった。なにより苗字は女性特有のこの柔らかい肌と豊満な乳房に何よりも至福を感じる男である。こうして、二人は秘密を交わす(それ自体は全くの娯楽であった、彼のスタンドとは微塵も関係がない)。それが苗字の仕事。苗字の役割。あとは彼のスタンド"アンジェリーナ・ジャーマノッタ"がなんとかしてくれる。苗字はなにもしなくていい。街に出て、かわいらしいベッラに愛想を振りまく余裕ができるのが、彼のこの仕事をなによりも好む理由であった。ホテルのシャワーを浴びる余裕だってある。

「おいおい、余裕だな」
「そうでもないよ。彼女はなかなか、卵が引っ付くのが遅かったみたいなんだ」
「だから…嘘をついた」
「そう、だから、嘘をついた」
「アレハンドロだって?笑わせるね」

バイクに股がって、長い髪を揺らしながらメローネはクスクスと笑った。彼のこと好きな子は、誰だってそう呼ぶよ。わざとらしく眉間に皺を寄せた苗字は肩をすくめて首を傾げる。至極悲しそうな、弱々しい声だった。

「俺、昔、アレハンドロって名前の親友がいたんだ」
「そいつも戦地に赴いて死んだ?」
「ばあちゃんがそう言ってたぜ」

火がついたようにようにげらげら笑って、煙草の先に灯を点す。巻いた癖毛を掻き上げて、肺の隅まで煙を吸い込様を見て、メローネは意外そうに一度だけ瞬きをした。「肌に悪いからやめたんじゃあなかったのか?」「やめた方がストレスが溜まって、ニキビができるんだよ」煙を燻らせながら、苗字は目を細めた。運動の後の一服は、労働の後のビールとピッツァに値する。「煙草の端を噛む癖は、なんとかしたほうがいいぜ」メローネはそう指摘したが、コレがモテるんだよ、と、苗字はそういって聞かなかった。彼はそうやって人目を人一倍に気にするところがある。貧相な肉体を隠すために、穴だらけのカーディガン(彼はそれを"洒落ている"と確信しているらしい)のその下に何枚のシャツを着込んでいるのかは、メローネにすらわからない。きっと彼に抱かれた女で、かつ正気を保っているような女でないと――つまり、苗字が心底惚れていて、かつ、両思いなんていう幻想を抱けるような"センスの悪い"女でないと――その枚数を知ることなんて出来ないのだろう。別に知ったところで何の特にもならないジョークだ。

「で、なに?お迎え?やっさしー」
「ばーか、次の任務だよ、おめでとう」
「えっ、嘘。ちょっと待ってよ、卵はもう、ストックはもう切らしてるし、ちょっと、ねえ」
「御愁傷様、どうせ残りのストックとやらはお前の女に使ってるんだろ、一個ぐらい解除して来い、ってリーダーが」

あっ、俺もそろそろ行かなきゃ。メローネが続けて、苗字は絶望した様な顔になる。「ベイビィから呼びかけが来てるんだ、育成には一刻を争うの、知ってるだろ?」ハンドルを握った腕を掴んで、苗字は懇願するような声で言った。

「まってよ今日俺が寝るとこなくなっちゃうよ、ねえってば」
「寝るとこなんて俺たちの事務所があるじゃあないか」
「あんな隙間風の入るところに一晩もいたら、俺寒すぎて死んじゃう」
「よかった、今は夏だね」
「じゃあカビる」
「だったらマジオの野郎はとっくにかびてるよ」
「あいつはエルボリナートなんでしょ、とっくに!」

半ば叫ぶようにして苗字は言った。やれやれと肩をすくめて、メローネはベイビィ・フェイスを開く。カタカタとタイプするのを横目に、肺の奥底から深いため息を吐いた。ろくに吸いもしなかった煙草はもうほとんど燃え尽きて、苗字はもったいない、と呟きながら靴の底でそれを捩じ消す。

「ま、とにかくリーダー直々の任務なんだ、やらないことには仕方がないね」
「もうさあ、いっぺんに二人とか、給料に見合わなすぎでしょ……ありえない。ねえ、俺、マーガレッタに振られちゃったらどうしよう」
「えっ苗字のシニョリーナ、マーガレッタっていうのかい?」
「そうだよ、結構カワイイ名前だろ?ぷりぷりしてて、ソレなりにいい体してる」
「それってさァ、マーガレッタ・ハボットじゃあないだろうな?」
「……なんでメローネが知ってるの」
「マジかよ!こんなにディモールト!おかしいことはないね」

よく笑う男だと、メローネに向かって怪訝な顔をしてみせた苗字に、メローネはベイビィ・フェイスの画面を突き出す。そうそう、マーガレッタはちょうどこんなカンジの、ふっくらした身体つきに栗色の毛、癖っけだねってからかうと顔を真っ赤にして怒ったフリをするのが特徴で。

「彼女、結構良好な母体だったぜ?マジで、確かにいいカラダしてるよな。苗字の女見る目、みなおしちゃったよ、俺」

メローネはクスクスと止まらない笑いを口の端から零しながら、ああおかしい、ともう一度だけ呟いた。
その晩ギアッチョに向かって絡み酒を試みては盛大にフられ、それはもう無様の二文字がぴったりだと言わんばかりに事務所で酔いつぶれていた苗字を介抱することが、新たにチームに配属されることになったペッシの最初の任務になったのは、また別の話である。



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Formaggio erborinato (フォルマッジョ・エルボリナート): ブルーチーズのこと




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