小咄 | ナノ

ばちり、と音がして、鍵の開く音が聞こえた。ここには誰も来ないんじゃあなかったのか、名前は眉を顰める。普段は閉じられている第二図書館の書庫、三階、資料閲覧室。書庫の奥にあるその場所は、彼女の隠れ家というには絶好の場所だった。そこは一般書架閲覧室のすぐ裏に作られているせいか、夏は涼しく冬はそこそこに温かい。普段はだれも立ち入らない、名前だけの隠れ家。普段はここで思索に耽ったり、詩を書いたりするのが好きだ。そんなプライベートスペースが、今、侵されようとしている。よわったな、と思うも当然のこと、彼女は合鍵でもってこの資料閲覧室を隠れ家としているから、みつかったらめんどくさいことこの上ない、身を隠せる場所がないかと首をよじり、見つけた本棚のすきまのくぼみに身を潜める。ここに人がいないことがまず第一だ。気づかないうちに出て行ってもらえればいい。それにここなら、入って来てすぐの人間に居場所がばれることもない。がちゃり、と、ドアノブを捻る音、彼女が身構えるのと同時に机の上で充電中のスマートフォンがちかちかとランプを点滅させて、ヴーヴーとなったバイブに名前のは血の気が冷めるような思いがした。ああ、あんなところに忘れ物。よりによって、こんな時に限って、と、名前は頭を抱えたくなる。どうせ級友からのくだらないメッセージの新着のお知らせなのだから。

「名前先輩のスマフォ…?」

その声に、名前はふと顔を上げる。がこがこと音を起てながら本棚の影から身を引き出して、その姿を伺うと、案の定、声の主は自分の予想を裏切りはしなかった。

「な、なんだ、日吉だったんだ」
「ちょ、先輩!…なんてところに入ってるんですか」
「バレちゃあれかと思って」
「バレるもなにも……スマフォ忘れてるじゃあないですか、アンタ馬鹿ですか?」
「敬語なら丁寧かと思ったら大間違いだぞテメエ」
「事実を言ったまでです」

やれやれと呆れたようにため息をついた後輩の掌から水色と白のさわやかなデザインのスマートフォンを奪い返しながら、名前は頬を膨らませる。

「で?テニス部の若様が第二図書館の書庫に何の用なんよ?」
「別に言う必要もないでしょう」
「でしょうね」

名前は頬を膨らませたまま、どっかりとアームチェアに腰掛けた。無駄に座り心地のよいこの椅子は、じつは某密林通販サイトで購入したものを持ち込んで組み立てたものである。背もたれが駆動式で、衝撃を吸収してくれる。ここによりかかって、課題の外書を読んだり昼寝をしたり、パソコンを持ち込んでアニメや映画を干渉するのが彼女の趣味である。ちらりと後輩の背を伺うと、背伸びをして棚の上の文庫本に手を伸ばしている。すぐ隣にある踏み台を使えばすぐなのに、と思いながら、案外ずぼらなところもあるんだなと人間らしい一面を知って思わず口元を覆う。

「何見てるんですか」
「いいえ別に〜」

スマートフォンに届いていたメッセージに適当な返信を考えながら、リュックサックの中の緑茶を取り出す。「ここ飲食禁止ですよ?」「零さなきゃ大丈夫、どうせ本も少ないし。……見つかった?」「ええ、おかげさまで」がこがこと物音がして、名前が顔を上げると彼はちょうどパイプ椅子を引き出して来たところだった。

「ここで読むんか」
「何のための閲覧室ですか。それに、外、暑いんですよ」

手で扇ぐようなポーズをとって、若はパイプ椅子に腰掛けた。ちょうど背中合わせになるような距離感、背中に感じる気配に慣れない。なんでまたこの距離感。名前は眉を寄せる。振り返って、ちょうど見えた涼しげなポロシャツに浮き出る肩甲骨が、いやにセクシーだと思った自分を一発殴ってもいいかもしれない。

「何見てるんですか」
「なんでもいいでしょう、本に集中しなさい」

怪訝そうな顔をしてきた後輩に、名前はそっと目を逸らして目の前の課題に集中することにする。それにしても、嫌に暑くなってきた。ボトルの中にはまだ、三分の二ほどの緑茶が残っている。



×