小咄 | ナノ

ぎい、と音を起てて、ブランコが揺れた。花京院は、ざり、と音を起てて、ブランコから飛び降りる。鉄棒でくるくると器用に逆上がりをしてみせていた苗字が着地したからだ。いささか目が回ったらしい、ふらふらと千鳥足で、近くのベンチに腰掛けた。花京院はその隣に座って、彼の緑色のそれが太陽の光を反射するのを眺めることにする。彼の意のままに動くそれがユノーとじゃれあっていた。

「どこかへ行きたいな」

唐突に花京院が口を開いた。苗字はちらりと彼の横顔を盗み見る、何を考えてるのか分からない、無表情に近い、少しぼうっとしたような表情だった。

「どこかって、どこさ」
「わからないけど」
「わからないのか」

苗字は小さく呆れたような息をつく。花京院が苗字のほうに首を向けた。それまで相手してくれた緑色の人形が姿を消して、ユノーが面白くなさそうに赤色の宝石をぐるぐると彼の身体中を這わせる。足をぶらぶらとさせて小石を蹴飛ばした苗字に向かって、花京院は訊ねた。

「名前は?どこか行きたいところはない?」
「ゲーセン」

即答されたその味気ない回答に、花京院は顔をしかめる。「そういうんじゃなくて、どこか遠く」だってそれじゃあ、ロマンのかけらもないじゃないか。そういった花京院に、苗字はすっかり紅くなった広葉樹の葉がひらりと落ちたのを目で追いつつ、口を噤んだ。しばらくの沈黙が流れる。何かを考えているようだったが、やがて、「さあ……考えたこともなかった」花京院はそれを、ひどく空虚な回答だと思った。
体育座りのように膝を折って、その上に組んだ腕の上に頬を乗せる。空を舞った落ち葉を追いかけるユノーを見上げながら、花京院はもう一度言う。

「どこか遠くへ、行きたいなあ」
「一人で?」
「名前と、二人で」
「……私が巻き添えじゃないか」

思わず眉間に皺を寄せた苗字に、少し驚きの混じった声で「名前は行きたくないの?」花京院はそう言って、苗字は肩をすくめた。

「自分の観念を人に押し付けるもんじゃあない」
「行きたくないのか…」

気落ちしたような声に、苗字は唇を食む。苦々しい声で言った。

「……別に、そういうわけじゃ、ないけど」
「そっか、よかった」
「でも、どこへ?」
「そうだなあ」

少し考えてから、花京院は言った。

「どこかおとぎの国みたいなところがいいな」
「綺麗な夕陽があって」
「美しい絵があって」
「お城なんかに行ってもいい」
「何か美味しいものを食べて」
「君と二人で星を眺めて」
「どこか世界で一番きれいなところに行きたい」

それはまた、ずいぶんと。子供らしくもないな、苗字はどこかで思いながら、そして思い出す。ずいぶん昔に、訪れた事のある、いや、訪れた事のあった、というべきか。ある美しい都のことを。うわごとのようだ、と思いながらも、少し懐かしむような心地がしながら、彼女は花京院の方を向いた。彼はちょうど苗字をみていたから、自然と目が合う。苗字は目を細めて、ゆるりと笑った。

「……じゃあ、ヴェネツィアに行こう」
「べネチア?」
「イタリアの、ヴェネツィア」
「そこは今から行けるの?」
「今からってわけじゃないけど」
「じゃあだめじゃないか」

花京院は頬を膨らませる。

「今から行きたいのか?」
「うん」
「行けるところなんて、限られているよ」
「どこまで行ける?」
「私たちなら、せいぜい、隣町ってところだろう」
「……そうだね」

少し悲しそうな顔になった花京院に、苗字はしまった、と思いながら、「それに、帰らなかったら、君の両親は心配するだろ」諭すような口調になって言った。

「私たちはまだ、こどもだから、できることとできないことがある」
「そっか……」
「だからそんな、泣きそうな顔をするな。大人になれば行けるさ、どこへだって」
「…大人になったら?」
「大人になったら」
「じゃあ、やっぱり、いつか、そこへ行こう」
「ヴェネツィアへ?」
「うん、ヴェネツィアに」
「君と二人で?」
「そう。僕と名前の、二人で」

晴れやかな表情の花京院に、苗字は何とも言えないような微妙なここちになって、「ふうん」曖昧な返事を返す。子供のたわごとだとわかっていても、約束はしたくないな、と思った。きっと、実現するには十年も二十年も先になるだろう。護れるか分からない約束だ。苗字は彼に不誠実を作りたくなかったから。しかしそんな彼女のルールを、花京院は知らない。小指を差し出して、花京院は言う。

「約束だよ」
「……、うん、わかった」

少し間を置いて、苗字は頷く。小指を絡ませて、花京院はいつもの、心から嬉しそうな笑顔を浮かべた。



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