小咄 | ナノ

過去に縛られた男だと思った。
暗闇に捕われた男だと思った。
凛然とした雰囲気と、どこからくるのか得体の知れない色気とがないまぜになって化学反応を起こして、内側には微塵もありもしない、空虚な高貴な気配を漂わせていたその男を、哀れだとも思った。
彼にまとわりつく言いようの無い影をみて、彼がそれに気づくことは一生無いのだろうと気の毒に思った。

「金輪際私に関るな」

あの日そう突き放したのは、彼に対してそんな感情を抱いていたからではない。
自分が罪悪感を抱くからだ。
哀れな彼を尻目に、のうのうと生きる自分が嫌だった。
私は聖人君子たる人間ではないから、だから彼の非道さを憎めない。
ただ彼のそういった部分に目を瞑り、耳を塞ぎ、ただひたすらに知らないふりをするしかなかった。

「お前も存外自分勝手な人間だな、名前よ」
「貴様に言われる筋合いなど無い」

だというのに"こう"だ。
血なまぐさく薄暗いこの屋敷に暮らすこと十数ヶ月、監禁ともとれる状況が依然として続いている。
私はどうしてこの男が私などにこんな悪趣味な真似をするのか、全く理解出来ていないでいた。
私は一介の使用人だった筈だ。その屋敷と主人はもう灰と化してしまったのが残念だったが、その後も運良く職に恵まれ、生活を再スタートさせたばかりだったというのに、どうしてこの男の影が付いて回らねばならないのか、全く理解したいとも思わない。
突き立てられたナイフを躊躇なく掴んで押し戻す、掌にじんわりと焼けるような痛みが走る。
こぼれ落ちた血液が刃を伝って男の掌に伝った。まるでスープの味見でもするように、そいつは鉄の味しかしないそれをべろりと舐め上げた。しばらく見ない間に、この男は人間ですらなくなったらしい。
気色が悪いと言えば、自らを神と驕ってやまないこの男は、満足そうに、気味の悪い犬歯を見せつけるようにして笑ってみせた。

「フン、痛みを堪えてナイフを押し返すか……全く貴様は私を退屈させん」
「……退屈させれば貴様は私を刺し殺そうとしないのか」
「ならば退屈させてみろ、それはそれで面白い」
「殺すならさっさと殺せばいいじゃないか、刺し殺す以外にも選択肢はあるはずだろう……昨日だって威勢良く若い女に齧りついていたじゃないか」
「今日はナイフに拘っていてね」
「ついでだ、貴様のその腐った火傷痕を抉ってみたらいい」

吐き捨てるように言った次の瞬間。手首を掴まれ、掌をべろりと舐め上げられて、じゅっと流れる血液を音を立てて啜られた。反吐が出る。その腕を振り払えば、ますます男の口は歪な弧を描いた。

「とんだじゃじゃ馬がいたものだ。このDIOが喰ってやったというのに、不満を抱く意味が分からない」
「全ての女が君などに靡くと思うなとあれほど言ったじゃないか。君の耳は節穴か?」
「威勢がよすぎるぞ名前」
「死ね」
「こいつァ重症だ」

勤め先の屋敷を燃やしたとか、連続殺人を起こしたからとか、女の血肉を好んで食べるからとか、全く常軌を逸した行動を取るからとか、そういう理由よりもそれ以前に、私はこの男が大嫌いだった。

哀れな彼を尻目に、のうのうと生きる自分が嫌だった。
私は聖人君子たる人間ではないから、だから彼の非道さを恨めない。
ただ彼のそういった部分に目を瞑り、耳を塞ぎ、ただひたすらに知らないふりをするしかなかった。
孕んだ稚児が私の腹を食い破って出てくるまで、この男はこうして私に執着するに違いない。

私はこの男を憎めずにいる。




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