小咄 | ナノ


いつもの日曜日が訪れることはもう永遠になかった。


A



教会のミサで、彼はソプラノの右端に腰掛けて喉を震わせる。彼女はいつも、そこの、苗字が立っている場所からギリギリ見えるか見えないかの、真ん中の列の左側、前から三番目で祈りを捧げていた。そこに彼女はもういない、もう来ない。訪れることのない相手を待ち続けるほど、苗字は愚かではない、来ないということは知っている、理解している。だって彼は見ていたのだから――彼女が堕ちていく瞬間を。


G



ウェス・ブルーマリンとペルラ・プッチが付き合い始めた、という話を初めて聞いたときのことを、苗字はよくおぼえている。臆病な自分であったから、それを聞いたとき、まず始めに、第一に、ひどくほっとしたのだった。それから、寂寥を感じて、嫉妬を感じたのは、驚くことにそれから随分後のことであった。ペルラ・プッチにとって苗字とは、よき友人であったということは自分でよく理解している。だから彼は言い出すことができなかった。彼女のことが好きだと、言い出すことができなかったのである。


F



彼は自他ともに認める臆病者であった。どうしようもない臆病者であった。だからあの懺悔室での出来事を聞いてしまったことも言い出せなかった。幸せそうなペルラの顔を見ているだけで幸せだったというのは言い訳であった。日曜の朝に聖歌隊の一番端で賛美歌に喉を揺らしながら、彼が祈っていたのはペルラの幸せであり、それ自体が彼自身にとっての保身に他ならないということにも気付いていた。彼女の幸せを祈ることの出来る自分を保っていないことには、彼は彼自身を憎まなくてはならなかったから。彼は自分自身を憎むことにすら臆病であったのである。


E



苗字がその場に居合わせたのは、奇しくもただの偶然出会ったことは言うまでもない。ウェス・ブルーマリンとは顔見知り程度の仲であった。ウェスはもうおぼえていないかもしれないが、彼らの住んでいた町のはずれにある駅から少し歩いたところの、塵捨て場に一番近いところにある靴屋の隣に設置された自販機の補充当番はいつも彼だった。それは決まって木曜日のことであったが、その偶然に苗字は救われたことがある。普段靴屋の店番をしていたのは苗字だった。彼はひどく臆病者であったから、いわれのないクレームをつけにくる夫人を追っ払うのが酷く苦手であった。その日も、自分が買ったこの革のパンプスへミンクオイルのクリームを使ったらだめになってしまっただとか、そういうクレームを喰らって、そんなことを言われたところでその靴を拵えたのは苗字の父であったし、ミンクオイルのクリームは彼の店で販売しているものとは違ったし、そもそもクリームで磨くという発想に至ったのは夫人であったからどうにも彼自身に非はなかったわけで、返金を求められてはどうしようかとびくびくしていたのを、たまたま眺めていたウェスに助けられた。

「あんたのミンクオイルで磨いて色が変わっちまったってその右の靴、そこのショーウインドウに飾ってある新品とまったく同じ色をしているように見えるのは俺の目がおかしいのか?それともあんたの頭がおかしいのか?わからないな、雨に濡れたって、その靴の色はそう変わらないぜ。俺の彼女が、同じのを履いているんだ。ここのおやじさんに、拵えてもらった時に、そう説明をうけたんだが」


D



胸が凍りつくような想いがしていた。
もう生きていけないような気がしていた。


C



暗闇に踞っていた幼い苗字を明るみに引き上げたのはまぎれも無くペルラ・プッチであった。彼は彼女を愛していた。臆病者であった苗字にとって唯一できたのは、ペルラを愛することであった。彼は自分自身を愛することはできなかったが、ペルラだけは愛することができた。それだけが彼の生きる意味であったに等しい。それは彼女が、苗字自身を見いだしたからだと、苗字は今でも信じている。

「あなたの歌声は美しいわ。神様の歌声ってやつね。だからそれを恥ずべきことだなんて、私はこれっぽっちも思わないわ」

苗字の透き通ったソプラノを、彼女はそう賞賛したから、それから苗字は彼自身の人生というものにあらゆる意義と意味を見いだすことができたのであった。


H






いつもの日曜日が訪れることはもう永遠になかった。






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