小咄 | ナノ

杜王町には海がある。太平洋に面した、どこまでもは続かない、白い砂浜でもないファミリーサイズの海岸線。日本の海だ、晴れた昼間なのにどこか暗いような気がするのは、涼しい気候ときっと、海の色が濃いせいだろう。ウミネコがミャアミャアと鳴いている。彼らの食事は済んだのだろうか、苗字は彼らの習性についての知識を持ち合わせていなかったから、どういう意図で彼らが鳴くのかは知らなかった。露伴なら知っているのかもしれない、少し先を行く漫画家の背中を追いかける気になって、歩みを早めた。海風が彼の前髪を吹き上げる。磯の香りのある海は好きだと思ったら、彼の中の大半はそれに賛同を示した。

「海に行く」

土曜のブランチに苗字の拵えたエッグベネディクトを三分の一ほど口に運んでから、思い立ったのだろう、突然向かいでソーセージにかじりついたところだった苗字に宣告した。「ハァ」気の抜けるような返答に露伴が難色を示すことなく、ただの独り言だったのかもしれない。満遍なくオランデソースを絡められて、ぴったりとマフィンからはみ出すことなく美しいフォルム保ったポーチドエッグにナイフを通す。上品な仕草で飴色のローストオニオンとカリカリになったカナディアンベーコンをフォークに刺しては、流れ出た黄身ともったりとした淡い山吹色のソースを器用に掬って口に運ぶ。「ウマい」露伴の口からぼろりと溢れた珍しい反応に、苗字はぱちくりと瞬いた。

「正直、ローストオニオンってチョイスがいかにも"見かけ倒し"ってカンジだが、付け合わせにアスパラガスとなすのグリルを併せて食べられるから楽しめる。ハッシュブラウンも、ハーブと塩気がバッチリ効いている。ポーチドエッグのゆで加減も悪くない、ソースの舌触りがいい、酸味も強すぎない、絶妙な加減ッてやつだな」
「あざす」
「どこで憶えてきたんだ?」
「先週、東京で」

苗字はベビィリーフをほおばりながら答える。露伴は鼻を鳴らしてふんぞり返った。

「あの偏屈が食ったものと同じものを食ってると思うと、気分がよくないな」
「ん、それなら大丈夫、あの人は専ら和食派だから。朝食も別だったし…」

おそらくそれ以上のことは聞きたくもないのだろう、100%果汁のオレンジジュースに口をつけた露伴の様子を、真人の中の十数匹がそう判断したから、それを信頼することにして、苗字は曖昧にそれ以上の言葉を濁した。「アー…」続ける言葉を探して回って、ひとつ前の話題を巻き戻すことにする。

「俺もついってっていいですか」
「どこに」
「海に行くって、センセ」
「どうせ駄目だといったって、ついてくるんだろう」
「やだな、センセの嫌なことは、俺だってしませんよ」
「嫌なことじゃあないッて判断しきっているところが、気に入らないね」

フン、ともう一度鼻を鳴らして、まるで悪態をつくような仕草で露伴は言った。ハッシュブラウンを余ったソースにディップしながら、きっと機嫌は悪くない。もうすっかり、エッグベネディクトはカケラになっていたから、今度また作ろうと思いながら苗字は自分が初めて見た"海"を思い浮かべる。
露伴が"偏屈"と称して忌み嫌う男が描いた"海"が、おそらく、自分にとって初めての"海"だったろう。あれはどこの海というわけでもなかったのだろうけれど、どこかこの杜王の海に似ているような気がした。少なくとも、クリスチャン・リース・ラッセンやロバート・リン・ネルソンの描くような、輝かしくもごてごてした海ではなかった。

「露伴センセ、次は海の話でも描くんですか」
「僕は波の飛沫のスケッチに来たんだ、お前はあっちにいってろよ」
「つれないなァ」

スケッチも何も、筆を飛ばせば飛沫の形なんていくらでもと思ってしまうあたり、やはり自分には芸術のセンスがないのだろう。肩を落として、人の少ない海岸をぐるりと見渡す。
歌川広重はどんなインスピレーションをここから受けたのだろう。
そして岸部露伴のその瞳には、どのような海が映っているのだろう。
自分にはない彼らの眸をひどく羨ましく思って、苦々しいような、苗字の頭の中の50匹は口々に何かしらを発したが、彼はどれを選ぶこともしなかった。
もうとっくの昔に売られていったあの絵は今、いったいどこにあるのだろうとそれだけを考える。
海を隔てた世界の向こう側にあるかもしれない。



(『フィフティ・ファースト・アニバーサリー』…本体の脳内に潜む、神経細胞(ニューロン)を象った50匹のスタンド(本体を含めると51人)。それぞれに頭脳と自我を持つ。)



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