ソロモンの守人 | ナノ

ジブライル・ブデュールは、引き戻されるようにして目覚めた。
未だ陽は登ろうともしていないで、窓の外には端の方が明るみかけた深く青い夜の色が広がっている。鳥の声もなにも聞こえないところを見ると、いつもよりもずいぶん早く目覚めてしまったことがわかった。
上体を起こしたまま、しばらく呆けたようにじっと空を見つめていた。彼女が低血圧であったことも多少の原因に含まれるが、彼女の頭の中では、今の今まで見ていた夢が再生されていた。がらんどうな聖宮で、あの大きな生首は確かに、アラジンは旅立ったのだと告げた。それがただの「夢」などではなくて、たしかに感覚を伴った事実であったならば、ソロモンの守人たる自分は今すぐ旅立たなくてはならないのではないか。
決定打に欠けるといえば、自分が死にかけていなかったことだろう。そんなことを思い浮かべている間に、はっきりとした意識と感覚がようやく浮上してきた。ジブライルの手には、鮮やかな色の宝石が嵌め込まれた髪留めが握られていた。こんなもの、見覚えが無い。まず眉間に小さく皺を寄せてから、その内側に挟み込まれた小さな紙片に気づく。ここから近くも遠くもない、けれど歩いていくならば結構な時間を要するであろう場所が、簡素な地図の上に覚え書きのように書き込まれていた。ジブライルは静かに口角を上げて、長い髪を掻き上げる。ねじるようにしてそれを束ねて、銀の髪留めを、差し込むようにして留めた。
着物を正しながら咥えた煙草に火を点して、紫煙を燻らせる。鼻から抜ける煙の息苦しさと舌がびりびりと痙攣するような苦い味がして、やっと生きている心地がした。日が昇る前にやらねばならぬことをさっさと済まさなくてはならない。窓の外では朝焼けで空が明るい赤紫に染まっていた。砂漠に近いこの街で陽の光を浴びることはすなわちジブライルにとって苦行を意味する。彼女は物心がつくよりもずっと昔から日光アレルギーである。原因はこの世界の科学を以て証明することは不可能だった。とはいえもう若いとは言えない時間を生きてきた彼女はそれに慣れきっていたし、今生となってはやっぱりだめだったか、くらいのものである。無茶をすれば爛れるし、かといって致命的ともいえないそれとは上手く付き合っていくしかなかった。しかし砂漠、厚着すればするほど、死ぬ程暑い。ジブライルは肌を覆うための篭手を身につけながらいつも通りのため息をついた。
寝台を下りて、荷を確認する。布で刀身を覆われた、全長でジブライルの背丈を越そうかと思われるほどの巨大な大剣、それを背中に下げるための革紐、何かと便利な小振りのナイフ、替えの衣類。これさえあれば、だいたいはなんとかなる。売り払ってしまえば豪遊は出来ないが生活には困らないであろう程度の、金や宝石で出来た、それなりに美しい装飾品が詰まった袋を一瞥して、ため息をついた。ジブライルは荷物になるものがあまり好きでは無かった。まだこんなに残っていてどうしてくれようと思いながら、革製の腰巻きの中に突っ込んだ。
朝陽が肌を刺し始めたのに気づいて、あわてて日よけを頭に被る。口の中で煙草を転がすと、それを最後に捩じ炎を消した。そろそろ発たなければと思って、ジブライルはいつものように大剣を背負う。運良く宿は前払いで会計を済ませてあったから、大抵の人間がようよう朝食をとるであろう頃合いに、彼女は既に宿を後にした。朝の空気は心地よかった。

街のはずれで朝食用にリンゴをふたつと昼食用の携帯食糧、そして飲み水を購入する。この辺りには盗賊崩れが多くていけない、アラジンが彼らのような輩に絡まれては大変だ。早いところたどりついてしまおうとただひたすらに駆ける。
みずみずしく甘いリンゴを齧りながら、ジブライルは嬉しいような戸惑うような、緊張するような心地でいた。彼女の表情筋はなにも象らない無表情のままだったが、彼女は確かに痺れるような感覚を胸に抱いていたのである。彼女は今日という日を迎えるために、今まで生きてきたのだから。

だから。
街を出てからしばらく、ほどなくして日が頂点に登りきる頃。

「……畜生の分際で、何をしているんだ?」

ジブライルは腹の底から氷でも吐き出せるのではないかと思うくらいに冷えた調子でその台詞を吐き出していた。
彼女に感知された小さな主人が、泣きながらぶるぶると震えていたからである。
主人に相応しい「ソロモンの守人」たらんとするジブライルは日頃、冷静な人間であるように努めている。けれどこの時に限っては、彼の胸ぐらを掴んで剣を突きつけ、大人数で取り囲み、更には売り飛ばすだなんて下品に騒ぎ立てる不逞な輩にかける容赦など、一ミリたりとも持っていなかった。



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