純然たる誠実に告ぐ | ナノ

ナイフの扱いは、ここ数日の間に飛躍的に向上した。問題は未だ制御の利かないガンブレードだけだとしたいところであるが、実戦で自分の戦略が通じるのかという不安は常につきまとう。しかしそれは奢ることを決して芳しく思わない彼女自身の謙虚からくるものであったし、自分の右手がガンブレードの衝撃への耐性を身のつけつつあることも、要は確信していた。先の戦闘経験からのシュミレーションも抜かりはない。ただ骨が摩耗した時のような鈍い痛みと痺れが煩わしいと、右手を持ち上げては気だるそうに目を細める。
熱すぎるくらいの陽の光に宛てて、白すぎる指が溶けてしまわないかを透かして確かめていた。あの何も知らなかった頃の自分の掌なら、陽光に透けて赤く染まり血潮の流れる様を確認することすらできたような気がする。今でこそ成長してはそんなこともあるわけがないし、何の生物なのかも分からなくなってしまったような、こんな人の形をした化け物の強靭な皮膚を透ける血液など尚いっそうのことあるわけがない。試しに波紋纏わせてみても、アレルギー反応は防げず、掌は若干の赤らみを帯びたが、溶けないだけ、まだ自分は人間でいるといえるだろう、そう自分に言い聞かせるようにして、昇って間もない朝の日差しを睨みつけた。

「右手の調子はどうだ」
「!」

ばっと振り返ったその先に佇んでいたアヴドゥルの姿を確認すると、二階堂は無表情を崩さないまま、ポケットから取り出した皮の手袋を両手に嵌めた。アヴドゥルのその顔に刻まれた線を舐めるように見上げては、少しためらいがちに短い質問を投げかける。

「いつから」
「シンガポールにたどり着く前から……と言っておこうか」

なんだ、ほとんど最初っからじゃあないか。ため息をつきたくなったが、ぐっとこらえて肩を落とした。

「それで。ジョジョにも報告済ってわけか」
「隠すほどのことでもないだろう、きみにとっては…尚更」

だれの心配も顧みないんじゃあなかったのかな。アヴドゥルの言葉に、思わず眉間に皺が寄る。

「うっとおしい同情はいらない」
「同情などはあいにく、我々はもちあわせてはいないがね」
「……そうだったな」

いずれは、最期は、どうあがいても、処分される身であることは知っている。同情などあっては、たまったもんではない。二階堂は目を細めて吐き捨てるように言った。

「私がどう私を使おうと、私の自由だった」

生き急いでると言われようが構わない。自分の命は自分の意志で、最後まで、自分のために使いたい。そんな口癖のようになった言葉など、わざわざ、それも思い出したように吐露する必要など、ない。無駄だ。

「私はアンタ達がどう言おうと、好き勝手生きる。不要に干渉してくれるんじゃあない。無駄な助けなんて、要らない」

第一、家族なんて、仲間なんて、所詮「ごっこ遊び」でしかないんだとはわかっているし、わかっているのは向こうだって一緒だ。
こういうところをドライに生きることが、ひょっとしたら、自分にはイマイチ、難しいことなのかもしれない。そう思うと、どうにも面白くなくて二階堂は口を噤んだ。自分は今よりもうずっと長く生きたことがあったはずなのに、どうしてだろう、こういうとき、彼らのほうがずっと大人であるように感じられて仕方がない。そこではたと気づかされるのだ。自分でも分からなくなる。大人になる、とは、いったいどういうことなんだろう。人並みの"大人"ではなく、死線をくぐりぬけてきたか否か、なのだろうか。それとも……それとも。

(この話がそもそも、フィクションだからだろうか)

二階堂は皮肉を頬に、薄く笑った。
きっと、何よりもいびつな表情なのだろうと思った。
アヴドゥルは少し眉尻を下げてひと息の間を置くと、彼女の頭に手を伸ばす。「……君は」落ち着いた『大人』の声で、アヴドゥルは言った。

「君は若く、感受性豊かで、とても人間らしい。そして、冷静だ。感情にまかせて頭に血が上るようなタイプとは違うだろう……その点、俺は君を信頼している」

そっと髪を梳くように撫でられて、一瞬驚いたように目を見開いては、アヴドゥルと視線を交わすよりも早く目を伏せて早足にアヴドゥルの前を過ぎ去った。照れているのだろう、彼女はいたって天邪鬼で、仲間を護りたいと思う理由のないその意志に、自分自身ですら気づいていない。彼女の身の置き所のはもう、"花京院"だけではないのだろうというのに、アヴドゥルは気づいていた。彼女の背はいつだって誰に対したって、誠実の二文字を背負い続ける。
アラブ風の長く白い衣に包まれたアヴドゥルの背中に続いてデッキへ戻ると、もう既に身支度も済ませたのか、ジョセフやポルナレフはモーニングコーヒーを飲み終えて、機嫌が良さそうだった。二階堂は少し目を細める。国境を前にすると、彼はいつもこうしてテンションが高くなる。そわそわと、落ち着きがない。

「アヴドゥル…いよいよインドを横断するわけじゃが、その……ちょいと心配なんじゃ……」

二階堂がついと顔を上げる。目で「スタンド使いが?」と訊いていたのを汲み取っては、肩をすくめた。

「いや…『敵のスタンド使い』のことはもちろんだが、わしは実はインドと言う国は初めてなんだ。インドという国はこじきとか泥棒ばかりいて、カレーばかり食べていて熱病かなんかにすぐにでもかかりそうなイメージがある」
「おれカルチャーギャップで体調をくずさねェか心配だな」
「フフフ…それはゆがんだ情報です。心配ないです、みんな…素朴な国民のいい国です……わたしが保障しますよ…さあ!カルカッタです。出発しましょう」

アヴドゥルが先頭をきって、船の外へ。陸地に足をつけるのはかれこれ二日ぶりだったが、照りつける日差しの、相変わらずの強さと、噎せ返るような独特の臭いに二階堂は気が滅入る様な思いがした。カルチャーギャップで体調を崩すかも、とポルナレフが言ったが、これで崩さなかったらむしろ人間かどうかを危ぶむべきではないかと思いつつ一行に続いて雑踏の中へと繰り出した。まずは滞在出来るホテルを探す必要があると、そういう手順だ。
一行の外観が悪目立ちすることは今に始まったことではないが、明らさまに好奇の視線を向けられるのは好きではない。「たまらん雑踏だ!」ジョセフが叫んだ。道路に寝そべった牛のおかげで、タクシーを使うことすらままならない。何かにつけチップを乞うのは大人も子供も関係がないらしい、一行を取り巻く物乞いの数は徐々に増えているようだった。遠慮のない者も少なくはなく、アヴドゥルだけが愉快そうに笑っていたが、二階堂は不快感に顔を大きくしかめる。

「バクシーシ!バクシーシ!」

差し出される手が鬱陶しく、そして暑苦しい。照りつける日差しと押し寄せる人の波に、気が遠くなりそうになる。子供が歌う声、老人の喚き、噎せ返るような熱気と巻き上がる土ぼこりに気が遠くなりかけたその瞬間だった。ドン、と、背中を押されて、二階堂が前につんのめる。おかげで花京院の背中に鼻から直撃して、「ぅぐっ」カエルが潰れ損ねたような声が出た。「大丈夫かい?」振り返ってくれた花京院に浅く頷いて、視界の端でユノーが人ごみに紛れてどこかへ駆けて行くのが見えた気がした。

「これがいいんですよ、これが」

アヴドゥルはそう言って愉快そうに笑ったが、全く同意しかねる。彼の保障はアテにならないと脳に刻んで、二階堂はどこかへ行ってしまったユノーを目で探しながら小さくため息をついた。



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