ころころと場面が変化しては世界が入れ替わり、どれほどそうしていただろう、ひどく曖昧な場所にいることに気づいた。 どこまでも白く、どこまでも暗い。白黒の明暗すらも曖昧で、いったい自分の影がどこからどこまでつづいているのか、さっぱり判別がつかない。 ユノーを心の中で呼んでみても、あの白い狐が自分の影からにょきりと耳を出すことはなく、いつまでも、どこまでも、ひとりぼっちだ。「ここはどこだろう」唇がその形を作った。声は出なかった。 「要」 反射的に振り向く、面を僅かに上げるとそこには良く知っている女性がこちらを見ていた。絹のようにさらさらと流れ落ちる黒髪、大きな黒い瞳、笑顔を浮かべる瓜実顔。その眼差しがひどく優しくて、どきりと心臓が脈打つ。たまらなく居心地がわるい。私が知っている彼女は、一度だってこんな顔をしてくれなかったじゃあないか。 いや、そんなもの、期待していたわけじゃあない。無駄だと知っていた。求めたこともない。 それでもなんとなく切り捨てられなかったから、あのとききちんと向き合ったんだ。 心の中の澱であったことは否定しない。片隅に、きちんと整理して、忘れてもいいように、おいてきたのだから。 だから、こんなような、ありえない幻想を求める様な、そういう、くだらない、どうしようもない、弱い自分である、だなんて、私は、そんなことは、認めない。 「嫌だったかな?」 耳元に囁かれた声に肩が震える。 「僕たちの幸せは、きっと、こういうものだったんだと、僕は思うことがある」 知らない声だった。知っている筈もない、見たことのない男だったのだから。二階堂の額にそっとキスを落として、彼女をテーブルに連れ立った。「おはよう、今日もいい朝だね」窓からは手入れの行き届いた庭が見えた。窓際の花瓶は母の趣味だ、彼女はプリムローズをこよなく愛す。それが父の髪の色に似ているからだと、私は知っていた。 「今日はどこへ出かけましょうか、あなた」 「どこへでも行こう、要に決めさせようじゃあないか。ほら、もうすぐクリスマスも近かっただろう」 二階堂のそれに良く似た瞳が笑いかける。黄金色の髪色も、茜色の瞳も。血管が透き通ってしまうんじゃあないかと心配になるような白い肌も。私にはない、美しいいきものであることの象徴のような気がして、少女はそれにひどく憧れていた。特別なひとだ、唯一無二の、天使の様な。 鳥が鳴くような声が聞こえてふと我に還る、用意されたエッグベネディクト、イングリッシュマフィン、お腹はすいていなかった。食べなくてはならないと思って、それから理由のわからない喪失感が胸を支配して、がらんどうになった肺に、息が詰まる様な気がした。口の中に押し込んだベーコンは、砂の味がした。 「とうさん」 どうして自分が彼をそう呼んだのかはわからない、ただこの情景に、もう逆らうことなどできなかった。恋しいだなんてそんな馬鹿な、と、胸の中で矛盾を叫ぶ声に蓋をして、ほら、もう、なにも聞こえない。瞑ったとたんに幸福が訪れる、かぶりついたポーチドエッグからとろける黄身は美味で、父はこれが好きなのだと思った。母は父のことを心から愛している。その証拠に、にこにことしている。ああも笑えるってことは、幸せってことだ。生きてるってことが、楽しくてたまらないッて顔だ。きっと、それはそれは、素敵なことなのだろう。 「なんだい?」カプチーノの片手に新聞を読みながら、彼は小さな要に優しく微笑みかける。すこし遠慮がちに、その白い頬を薄紅色にそめながら、はにかむ様にして少女は応えた。 「どこでもいいよ」 「とうさんとかあさんがいるなら、どこでもいいよ」 ねえおねがい、だから、どこへもいかないで。 どこかでサイレンが聞こえる。 「遠慮なんて、するんじゃあない。なんでも好きなものを言ってごらん」 「きっと叶えてあげるわ。ほら、口の端にソースがついてるわよ」 ここにいて。 耳を劈くような。 「わたしは……」 私が、こんなもの、求める理由がないじゃあないか。 飛び起きた二階堂の体はひどく汗ばんでいて、涼やかな夜だというのに全く心地が悪いことこのうえなかった。肩で息をして、まるで全力疾走してきた直後のようだ。冷蔵庫からよく冷えたボトルを取り出して、瓶のそのまま、一気に水を煽る。火照った体に水を打つ、早鐘の様な心臓にはきっとちょうどいいショックだろう。目を醒ませ、二階堂要。 ああ、もう、子供じゃああるまいし、まったくばかばかしいことこの上ない。ポルナレフと家族の話などしたせいだろうか、それともジョセフとスージーQの会話を聞いていたせいだろうか。何がどう転んであの深層心理にたどり着いたのか分からないし、そもそもただの記憶整理に深い意味なんてないだろう。なにをこんなに動揺して、みっともない。夢のなかで語りかけて来たあの"父親の様なもの"の顔はもう思い出せなかったし、あの母親は今心から愛しているのはあの寺の住職に違いない。第一彼女の手料理なんて二階堂は食べたことなどなかったし、あのひたすら味の薄かった精進料理くらいしか、幼少時に食べた手料理なんて、それくらいしか、憶えはない。 あれが自分の理想だとは思いたくない。 それとも。もしも、あれが理想だというのなら、とうに、この現実に対して自分は酷く不誠実だということになる。 脳裏をよぎったその見解で、自分自身に怖気が立った。両肺の奥が震える。 ジョセフがいて、花京院がいて。 命を懸けて、護りたい人がいる。 誠実に、この命を、人生を終える。 死ぬことが怖くない訳じゃあない。 二階堂はこの生に満たされている。 生きる意味がある。 生きる意義がある。 生きている価値がある。 それだけで十分じゃあないか。 指先の震えを、力ずくで握り締めた。 ← ▼ → ×
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