純然たる誠実に告ぐ | ナノ

狐が肩を叩いたから、二階堂はため息をひとつだけ落としては、ずいぶんゆっくりと振り返る。だいたい誰がついてきているのかなんていうのが既にわかっていた、というのも、ずいぶんとおかしな話だと思いながら、彼女の紅色の瞳は緑色の学生服を視界に捉える。何も確証づける様な証拠はなくとも彼だとわかる、というのが、彼に対する信頼からくるものなのか、それとも十年越しの依存なのか、自分でもときどきわからなくなる。形容し難い思いが胸にこみ上げて、二階堂はそっと目を臥せた。
微笑みは温かく、ひだまりのように眩しい。いつだってこの笑顔が大切で、心の中で鎖となって二階堂を生への執着に縛りつける。彼女の最大のアイデンティティ。不自由な右手の指先、触れたピアスが、痛い。熱い、ような、気がする。

「どこに行くんだい?承太郎たちはもうチケットを買いに行った頃だと思うけど」
「どこだっていいだろう」

つっけんどんな返事に、苦笑いを零して花京院は静かに手を差し出す。「いくあてがないなら、マーライオンでもみに行こうか?」二階堂は首を縦に振ったが、その手を取ることはなく、コートの裾を翻しては花京院の前を進んだ。もとからそのつもりだったのだろうか、と思ったが、おそらく違う。ユノーが二階堂の背中に浮き出たナイフの刀身を指差して笑った。きっとどこかで投擲の練習でもするつもりだったのだろう、それか、怪しい奴がいないかパトロールでもするつもりだったのかもしれない。暑苦しい黒コートをの上に散らばった金糸のような髪が風になびいた。
シンガポールの日差しはジリジリと熱く、こまめに水分補給でもしないととても長時間歩けたものではない。それは半吸血鬼たる二階堂にとっても同じことで、人間らしい生理現象たる喉の渇きとして脳に信号を発していた。「なにか飲み物でも飲もうか?」花京院の言葉に素直に頷いて、道端で打っているココナツの実を購入する。二階堂はそのスポーツドリンクを薄めたような味の果汁とその風味があまり好きではなかったが、ユノーが屋台のココナツを積み上げてできた山の一番下から一つ抜き取って、その山を大いに傾れさせたのに罪悪感を感じたからというのがそのチョイスの原因である。愉快そうなユノーにジト目を送ってから二階堂は微妙な顔をして飲んでいたが、花京院はこれをいたく気に入ったらしく、スプーンでもって上機嫌にその果肉をつついていている。この味が好きだったのか、それともこのいかにも"南国"といった態の様相と風味を気に入ったのか、二階堂にはわからなかった。案外食べ物の好みは合わないのかもしれない、と、香港のカエルの件を思い出して二階堂は花京院からそっと目を逸らした。遠くにマーライオンの後ろ姿が見える。もうそんな所まで来ていたのか。
ユノーが空になった実をどこかへ放り投げようとしたのを阻止して、道端のゴミ箱に棄てる。ポイ捨ては罰金だと昨日習ったばかりだ。

「調子はどうだい?」
「君はそういう曖昧な話が好きなんだな」

二階堂の返答ともつかない返答に花京院は眉を寄せる。「どうしてそんなケンカ腰なんだ」二階堂は目を合わせないまま、飛沫を起てる噴水を眺めているふりをしていた。

「べつにそういうつもりじゃあない、ただ…」
「ただ?」
「……無駄は嫌いなんだ」
「無駄じゃあない」
「どうして」
「ぼくが要を解るには、必要なプロセスだ」
「花京院には解らなくていい」
「いいや」

花京院は静かに否定する。二階堂は目線をようやく花京院のほうへ寄越したところだった。
潮風に当たりながら、二階堂は目を細める。花京院は笑っていなかった。至って真面目な顔で、それが以外だったのか、二階堂は二、三度瞬いて、口が開かれるのを待つ。自分から何か意見しようとは思わなかった。

「ぼくはきみが傷つくのを見たくない、だから、君をわかる必要がある」
「ケガなんてどうせなかったように"戻る"んだ、花京院が気にすることじゃあない」
「だから好きにさせろっていうのか?この旅には命の保障だってないんだ」
「私は既に決めている。私には覚悟がある」
「だが…」
「何がそんなに不安なんだか…ずいぶんとわからず屋だなきみは」
「わからず屋でもいいさ。でもぼくには、君が何を見ているのかが見えないからね」
「………そんなん、知ったって無駄だよ」

もう自分は全く、心を決めているのだから。二階堂は桟橋の手摺に両肘を預けて、花京院から目を逸らす。水しぶきをぼうっと眺めて、きっとどうやって説得しようか考えているのだろう。花京院は小さく笑いを零して、彼女の隣に浮かんだ精神の分身に手を伸ばす。そっと抱きしめる様にして狐を撫でる。二階堂は心底面白くなさそうな顔をした。

「こうでもしないと、君はわからないだろ?」
「……わかってるじゃないか」

わざとらしく口角を上げた二階堂をよそに、そういえばチケット買いに行きそびれちゃったな、なぞ花京院は小さく呟く。不機嫌なのか上機嫌なのかわからないような、曖昧な顔をしている二階堂は「もし仮に敵に遭遇したって、どうせあの男は死にやしないさ。なんたって主人公だからな」と返して、花京院は首を傾げたが、二階堂はなにも言わなかった。気が済んだと言わんばかりに、二人はマーライオンに背を向ける。

「あんまり大したことないんだな」
「がっかりした?」
「いや………見られて、よかった」

肩を並べて歩く、光彩に映る色は同じだといい。狐の尾を眺めながら思った。



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