純然たる誠実に告ぐ | ナノ

もうすぐ到着する、との知らせが届いてからしばらく、二階堂ははじめて甲板に姿を見せた。丸一日ぶりに浴びる日差しが眩しいのか、目を細める。真新しい黒コートをきっちりと着込んで、一見暑苦しさは三割増だろうか。真新しい黒い手袋を嵌めた彼女が船主で風にあたっている花京院を見つけると、向こうもこちらに気づいたのか振り返って、眩しそうに顔をしかめる二階堂を見つけて微笑んだ。どうやら、機嫌が悪いわけではないらしい。二階堂はどこかほっとしたような、安堵の息を心の中だけで漏らす。

「眉間に皺が寄っているよ」
「眩しいんだ」

二階堂の額に右手を翳した花京院の前髪が、風を受けて翻る。「ほら、あそこだよ。もう見えてきた」花京院が反対の手で指差した先、遠くに陸地が見えて、二階堂は素直に感嘆の声を漏らす。「予定よりもずいぶんと長くかかったな」「荒れている海域を避けたせいで、遠回りになってしまったらしい」花京院はそういったが、二階堂には、あらかたラッポラのせいだろう、という予測がついていた。彼が持ち込んだカメラの台数からみると、なんとしてでも自分を映像に残したいという迷惑きわまりない熱の入れっぷりが察せられた。あれは、研究対象のためならなんでもする男だ。その執念は"監視"を解かれた後でも、未だ冷めやらぬらしい。手摺にだらりともたれかかって気難しい顔をしていた二階堂に、花京院は笑いかける。唐突に、思い出したように口を開いた。

「スマトラと言う国の王子が新しい領土を求めて航海に出た時、白いたてがみの獅子…シンガの住む島を見つけた。王子はその島を、シンガプーラと名付けた……それがシンガポールの名前の由来なんだって」
「白いたてがみの獅子、ねえ」
「ベルヴォルペ・ユノーのその鱗のついたエリマキみたいなのは、たてがみなのかい?」
「知らない。エリマキなんじゃあないの、君がそういうんだから」

特に何を話すでもなく、細切れの応答を繰り返しながら、しばらく、近づいてくる景色を二人で眺めていた。まるで十年前のようだ。どこか懐かしいような、胸の奥がこそばゆいような気がして、二階堂は目を細める。視界の先では巨大な湾の入り江にさしかかって、その港の規模の大きさがはじめて伺えた。巨大なクレーンがいくつも設置され、コンテナが山のように積まれている。世界中の船やタンカーが行き交う海峡の国。自由貿易によって西洋と東洋がとけ込む多民族国家、シンガポール。海外渡航経験の多い二階堂にも初めての地であった。「マーライオンみにいきたい」と小さく呟けば、花京院が吹き出す。何がおかしい、と少し高い目線を見上げた。

「承太郎と同じこと言ってると思って」
「!」
「うそうそ、冗談。そんなに厭そうな顔しなくったっていいじゃあないか」
「……」
「いやね、ただ、君の場合、ギャップが…」

そこまで言った所で、花京院の視線がふと二階堂の背後に逸れて、そして表情が固まった。異変に気づいた二階堂が振りかえると、いつものへらへらしたラッポラの笑顔がすぐ目と鼻の先にあって。予想外のそれに、次の瞬間、右手が躊躇なく正拳突きを繰り出していた。案の定、それは上手いこと避けられて、彼女の眉間には深い皺が刻まれるわけだが、やはりラッポラはどこ吹く風である。

「コートの調子はどうでした?」
「……悪くない」

よかった、自信作でしたから。と、安堵の息らしいものをついたラッポラに、二階堂が思い出したように口を開いた。

「一本だけ、ケースの底に、よくわからないものがあった。刃渡り60センチくらいにしてはやけに重い、片刃の、もうほとんど剣のような形をして、無理矢理銃の柄がついたような……リボルバーもあったし、弾も…なんだあれは」
「ガンブレードってやつですよ。お嬢、ゲームで見たことあるんじゃないですか?」
「……まさかお前が開発したとか言うんじゃあないだろうな」
「まあ実質、実用化には遠い品かもしれませんが」

そんなものを私によこすなよ、というジト目を頂戴して、ラッポラは乾いた笑いを漏らす。刀身のそれ自体を強度してあるためにとても頑丈だし、振動剣としての切れ味はお墨付きなんですけどねえと呟いた。「なんせ自分にかかる衝撃が強すぎて、俺じゃあ扱えませんでした。お嬢お得意の修練あるのみってヤツですよ」別に得意でもない、と、二階堂はげんなりしたような顔をする。

「お嬢なら、きっとできます」

お前は私に意味の分からない期待をしすぎちゃあいないか、という意味の籠った視線を向けられても、ラッポラはニコニコ笑ったままだった。「ラッポラ、ちょっとこっちに来てくれ。シンガポールの滞在先じゃが…」ジョセフのその声に、彼はそそくさとその場を去った。小さくため息をついた二階堂に、花京院がなんとも言えない視線が浴びせられる。そんなに危ないものを持って、どうするつもりだ、という意味だろうか。

「言いたいことがあるんなら、はっきり言えよ」

少し不機嫌になった二階堂は顔を背けて、港に入った船から見えるシンガポールの町並みを眺めることにした。そうはいったって、自分はいつも、耳を傾けないじゃあないか。じわりと心の中に苦みが広がって、ため息をつきたくなる。やがて承太郎が花京院を呼ぶ声が聞こえて、隣から気配は遠ざかっていった。目下ではざぶざぶと波が変わらず飛沫を上げていた。時折頬に跳ねてくる水滴、うっとおしいと、思うほどでもない。
影から飛び出してきたユノーがからかい混じりに二階堂の背を叩いた。その狐の頭を殴りつける。ちょうど宝石が手の甲にぶつかって、じんわりとした痛みが走る。自業自得という言葉がなんとなく頭の片隅に点滅して、苦虫を噛み潰したような顔になった。



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