純然たる誠実に告ぐ | ナノ

二階堂は咄嗟に左手に握られていたダガーナイフを、少女のシャワー室前の天井に向かって放つ。ほぼ直線の軌道を描いて、狙い通り天井と壁の隙間に突き刺さる。その間にも、下半身がずぶずぶと引きずり込まれるようにして沈んでいた。タイツが裂け、みちりと骨が鳴る。潰されるような痛みが走った。二階堂の視線の先では、シャワーの音は聞こえても悲鳴は聞こえはこない、目を離した隙に、殺られてしまったか。やはり敵は一般人にも容赦ないらしい。とんだ下衆野郎を相手にしくじった、次の一手はどうしたものかと頭はやけに冷静で、膝まで飲み込まれたかと思ったそのとき、背後に殺気を感じて、ようやくナイフと体を入れ替える。ダガーが呑み込まれては一本無駄になってしまったが、背に腹は代えられない。ましてや敵の攻撃を受けた今、当然、命にも替えられない。天井に張り巡らされたパイプにつま先をかけ、左半身を捩って着地する。ガン、と床を踏みしめる音が鳴って、二階堂のコートから壊れた錠前がこぼれ落ちた。床は正常だ、あの場所が柔らかくなったととも思えない。しかし、自分の足は確かに沈み込んでいた。いったいどういうことだ、あの能力で鍵を破壊し船員たちを殺害したのかと思いながら、しかしそれでは最初の攻撃への整合性がつかない。そして何より、スタンドが見えないのがおかしい。睨みつけた視線の先で、開け放たれたドアの向こうから血塗れの指先が見えた。ユノーが牙を剥く。見覚えのある『人ならざるもの』の腕だ、二階堂の右手が腰のランボーに伸びる。刃渡り28センチ、多少大降りであるものの小回りの効く、厚手の刃が光を反射してぎらりと光った。

「出て来い、クソ猿公。私は今……とても、気分を害した」

オランウータンが姿を現す、所々返り血を浴びたこの獣が、どうやら敵であったらしい。二階堂は獣臭さと血の混ざったような臭いに眉間に皺を寄せた。この猿がスタンド遣いであることは間違いないと思ったが、そのスタンド像は見えない、まさかユノーと同じように姿を隠すことが出来るのかとも一瞬考えたが、ハイエロファントグリーンが気配や姿を察知できないわけがない。そのうちじっとなめるような視線を浴びて、それが自分の破れたタイツに向いているのだと気づいて、二階堂は顔を歪めた。

「ちょっと、どうしたの?」

少女の声が聞こえて、オランウータンが興奮したような声を上げた。二階堂は舌打ちを打つ。「死にたくなかったら今すぐに水を止めて服を着ろ!」そう叫んだ二階堂は既に、ナイフを投げるモーションに入っていた。一瞬気が逸れていたオランウータンが二階堂を視界に捉えたそのとき、オランウータンの鼻先をダガーが掠めたかと思うと、その頭にランボーが振り下ろされる。それを反射的に防いだオランウータンの右腕に、一筋の線が走った。

「ブッギャアアアア」

吹き出した血と猿の絶叫に、家出少女はカーテンの隙間から、上着だけを羽織った状態で顔を出した。「服を着ろと言っただろうが!」二階堂が気を取られて怒声を上げたその時だった。めきめきと音を起てて、背後の換気扇に取り付けられていたプロペラが外れ、二階堂の後ろ首に向かって放たれる。

「要!後ろにッ!!」

そう少女が口走った一拍前にそれに気づいて身を屈めるも、どういうわけかプロペラは不自然に軌道を変えて二階堂の右肩に容赦なく突き刺さった。灼けるような痛みが走って、二階堂の口から思わずうめき声が漏れる。しかし彼女は膝をつかずに、なんとか踏みとどまって猿を睨みつける。

「物体を自在に操るスタンドか…範囲はどのくらいだ」

この際、スタンド像のことを考えるのは無駄だと切り捨てた彼女の選択は間違ってはいなかった。目の前にいる猿をブチのめす、ただそれだけに集中することにする。目に見えない相手のスタンドが遠距離型レベルであるならば、花京院含む一行が危険に晒される可能性がある。ならば相手の意識を此方に向けつつ、一刻も早くけりをつけなければ、そう思いながら、肩に刺さったプロペラに手をかける。痛みは、そこまで酷くない。しかし肩から引き抜こうとしたプロペラが、二階堂の頭を殴りつけるようにして、ひとりでに宙を舞った。吹き飛ばされた二階堂と肩から吹き出した鮮血を見たのだろう、家出少女の悲鳴が聞こえた。さすがに意識が飛びそうだと思いながら、ギリギリのところで持ち直す。飛びかかってきた猿に回し蹴りを食らわせるも、どういうわけか急所を外した。二階堂は眉間に皺を寄せる。目の前に居た筈の猿の姿が消えたのだ。戸惑う二階堂にたたみかけるようにして、ひとりでに割れたガラスの破片が飛んできたのを、ダガーを飛ばしてギリギリの所で避けたが、体制を崩して膝をつく。やばい、そう思ったそのときには、ずぶりと体が沈んでいた。パイプが伸びてきたせいで今度は両手を捕えられ、身動きが取れない。

「あ…あんた、腕が…ッ!」

服を着用し終えていた家出少女にチラリと目を向ける。少女は二階堂の左腕を食い入るように見つめていた。おそらく、目に見えていないか、それか獣のような腕が見えているのか。どちらかはわからない。しかしそんなことは、この際いっそどうでもよかった。

(入れ替えるか)

どこかに隠れたユノーを探す。今の状況をジョセフや花京院に吐かれるのもたまったものではないが、何かあって知らせなかった、挙げ句に負傷したと、後からなじられたものではたまったものではない。やがて少女の背後、宙に浮いた紅い宝石を見つけて、すでに触れたあとだと、ユノーの感覚から伝わってきた。

「死にたくなかったら目を閉じろ」

二階堂の声は冷静だった。少女の怯えたような視線が二階堂に向けられる。構わないさ、これで奴を片付けられるなら。口の中に溜まった血液を吐き捨てながら、二階堂はユノーに向かって目で頷いた。ユノーがにやりと笑って、その白い体が薄れていく。消すことの出来ない二階堂の左腕だけが宙にぶら下がって、ひどく不気味だった。それもやがてどこかへ隠れるようにして、まもなく、床からずぶりと見覚えのある獣の腕が生える。今度は船長を彷彿とさせるような帽子と白い制服を纏い、パイプを咥えて現れたオランウータンがにやりと笑って、その手に持っていた辞書をぱらぱらと捲った。
"strength"の項を二階堂に指し示して、下卑た鳴き声を上げる。
タロットカードの「力(ストレングス)」、スタンドの名前とみて、きっと間違いはない。
酷く滑稽だと思って、くすりとも零さない。拘束されたまま、彼女は無表情だった。



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