階段を降りきった二階堂は、手摺が錆び付いていたせいか少し赤錆が付着して鉄臭くなってしまった掌を一瞥して、わずかに顔を顰めた。 貨物庫のずいぶん奥まで入ってきたせいだろうか、規則的に、ごうん、ごうん、と、エンジンの稼働している音が聞こえた。がらんどうに空いた空間には、ただ微弱な熱気と湿気ばかりが籠っている。金属の足場を歩くたびに、ローファーがゴンゴンともコツコツともつかない金属を打ち付けるような音を起てた。彼女のそれは、ジョセフが最近『ハイスクールに編入するなら』とわざわざ買って寄越した、質のいいものだった。実際にこれで学校に行ったことはたった二度ほどしかないが、それでも革は彼女の足にはようく馴染んでいて、二階堂はこれをなかなかに気に入っている。突き当たりの重い扉をごろりと開く。力を入れたせいか、つきり、と痛んだ鳩尾と背骨に気づかないふりをして、二階堂はユノーをちらりと見やった。頷くと、狐は影の中に溶けていった。 「要」 その声に、二階堂はピタリと歩みを止める。無表情のまま振り返った。後ろから誰かがついてくる音は既に彼女の耳に届いていたから、別段驚きもしない。 「おかしいと思わないか」 花京院を視界に捉えて、表情も変えずにそういった二階堂に、花京院は開きかけた口を閉ざして、言いかけていた言葉を飲み込んだ。彼女が唐突に口を切ったのには、それを狙っていたというのもある。彼が提供しようとしていた話題を、少なくとも、この場では、話す気はなかった。彼は一旦飲み込んでしまった言葉を吐き出そうか迷って、言葉に詰まったように見えたが、やがてそれも諦めて小さく息を着いてから、「…おかしい?」がらんどうに開けた、ところどころ錆び付いて、見方によっては年季の入っていることを伺わせる船内を見渡す。 「この船はRORO船と呼ばれるたぐいの船だ、本来ならば自動車やら、コンテナやら、貨物が詰まっている」 「たしかに、コンテナはあっても、中身はほとんど空だね」 「さっきの一斗缶の山だってそうだ。油でも詰まっているかと思ったが、まったく空だった」 だからクッションになって、都合は良かったけれど。二階堂は他人事のように言う。花京院は顔をしかめた。 「……なんであんな真似をしたんだ」 「言わなかったか。私は人間の血を見るのが嫌いなんだ」 眉間に皺を寄せた彼に背を向けて、二階堂は見つけたコンテナを片っ端から蹴り付けながら、更に船室の奥へと進む。中が空洞かを調べているようだった。地道な作業である。 (それにしたって、やりかたってものがあるだろう…) 二つの意味でそう思いながら、花京院は少しばかりため息をつきたくなる。自分の知らない間に、二階堂要というもの静かで大人しかった少女はずいぶんと粗暴な人間に育っていたらしい。 船底に近い、人が入れる端の端までそれを続けて、花京院はそれからしばらく口を噤んだままだった。 彼は自身のスタンドで、彼女をどうこうすることはできない。彼のスタンドは今、二人から遠く離れたパイプの中を這いずり回っていた。しばらくの沈黙、花京院はずっと腑に落ちないといった顔だったが、二階堂はそんなことにはまったく意に介さない様子で淡々と前進をつづけた。彼女の二歩ほど後ろを行く花京院は何かを考えているようであったが、それを振り返る素振りを見せない。折り返し地点に差し掛かった頃、とうとう痺れを切らせて、花京院は口を開いた。 「"波風を立てないように生き"てるんじゃあ、なかったのか?」 「……」 「やけにつっぱっているように見えるよ、最近は、特に」 「……君に指摘される筋合いはない」 二階堂は目を伏せて、花京院に背を向けた。「だって、無駄に気を遣ったって、そんなん、どうせ無駄じゃないか。無駄なことは嫌いなんだ」付け足すようにしてそう口走って、また一つ、ごおん、と大きな音を起てる。なるべくローファーが痛まないように靴の底で蹴る、そのせいで、腹の底に響くような重低音がするのだと気づいた。そういう気遣いはするのに、ねえ。 「まるで冷静じゃない、生き急ぐような真似をする。ダークブルームーンの時も、昼間のクレーンの時の対応もだ」 「……単細胞だって言いたいのか」 「僕が気が気でないんだよ」 「君の都合など知ったことか。私への心配なんて、そんなん無駄だ」 そもそも君とは体の作りが違う。人より、多少丈夫に出来ている。知らないのか?疫病神は死なないんだ、なんたって、神だからな。至って静かな声で、少し皮肉るようにして二階堂は言ったが、その声には僅かに怒気が含まれているように感じられた。苛立っているのだろう。一通り船内を確認して気が済んだのか、今度は手摺に触れないようにしながら、塗装のはがれた階段を登る。動力室から離れた分だけ、少しは籠った空気がましになったような気がした。細い廊下の先を見据える。備え付けられた嵌め込み窓の外で飛沫を上げる、夕陽を浴びた波に、二階堂は目を奪われる。 ひどく眩しいと思った。 もうすぐ夜が来る。 「……君は、疫病神なんかじゃない」 その血色の瞳が僅かに揺れたかのように見えた。二階堂は答えない。しかし、その目は口ほどにモノを言う。どうしてそうだと言えるんだ、というような目を、まっすぐ彼に向けていた。そうして、やはり彼女は人間なのだと、花京院はどこか安堵に近い感覚を抱く。 「だって君は、ただのちっぽけな人間じゃないか」 花京院は眉尻を下げて笑いかける。二階堂は眩しそうに目を細めた。花京院はふと自身の影を見やる。いつの間にか彼の影にとけていたベルヴォルペ・ユノーの額がきらりと夕陽を反射して、影の中の頭の部分に、ぎょろりと狐の二つの目玉が現れる。彼女の精神を具現化させただけの、ただのヴィジョンに過ぎないと、そんな曖昧な狐なのだとわかっていても、それはひどく不気味だった。 ← ▼ → ×
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