純然たる誠実に告ぐ | ナノ

夜半をとうに過ぎて、月は空高くに浮かんでいた。二階堂はごとりと音を起ててアメリカ・ボウイの収まったホルダーをテーブルの上に落ち着けると、椅子を引いて、一度だけ大きく伸びをする。月光の差すカーテンの隙間にちらりと視線を寄越した。
窓の向こうに広がる夜の世界は相も変わらず鮮明で、遠く広がる海の波のしぶきの一欠片まで見渡せてしまいそうなそうな気さえした。水面を滑るようにして進んでいく米粒のように小さい汽船の影すら、二階堂の視力はたしかに捉えている。時間が時間なせいだろう、車の喧噪もない、まるで切り取られた風景画のように静かな景色だった。引き寄せられるようにして立ち上がる。白いレースのカーテンの向こうの、世界を隔てるバルコニーのガラス戸を開くと、ひんやりとした風が頬を伝って部屋へと入り込んだ。ポルナレフのいびきが聞こえて、いい加減もう寝なければ、と思うのに、どういうわけか、外に出たくてたまらなかった。夜風に当たりたい気分、というやつなのだろうか。妙なノスタルジィにかられるつもりはない。ナイーブになっているわけでもない。ましてや暗闇が魅力的に思えたわけでもない。むしろ、人間でありたいと切に願う二階堂自身を半吸血鬼にする暗闇を、彼女が好ましく思ったことはなかった。
案の定。濁って淀んで、いっそどろりと溶け込んでしまえそうな闇が、バルコニーの鉄枠の外には広がっていた。空を見上げたが、どういうわけか、星が見えない。どんよりと曇っているというわけでもないのに。例え灯りのない街で暗闇に包まれたとしても、決して光を見失うことはないというのに、星を見失うなんて。二階堂は小さく首を傾げる。眩しい街頭に照らされしまったのだろうか。あぶれたかのような赤色の月だけが、ただただぽっかりと浮かんでいた。
二階堂は目を細める。血をこぼしたように紅い月だった。天気が崩れる前触れか何かだろうかと、どこかで冷静に考える。それはまるできらりと光を反射させたルビーか何かのようで、"現実味"の三文字を、決定的に欠いていた。月はじっと、二階堂を見下ろしている。じっとして、逃げる素振りも見せない。なんだかとても懐かしいような、心臓の奥がじわりとにじむような心地がした。まっさらな水の中に、一滴だけカラーインクを落としたときの、ゆらゆらと溶けるような、にじむようにして馴染んで、溶けていくような、そんな感覚。
手を伸ばせば届くところに、あの美しい結晶があるんじゃあないか。
そんな馬鹿げた錯覚を抱いて、ふと伸ばした右手の指先。
あと少しだ、あと、ほんのすこしだけ。
手すりから、身を乗り出して、二階堂はただそれを掴もうと手を伸ばす。と、横から月明かりにキラキラ輝く緑色がからめ取るようにして二階堂のその骨のように白い手を制した。ぐるりと腰に巻き付いて、彼女の体を包み込むように、半ば拘束するようにして柔らかく引き寄せる。二階堂はゆるりと振り返った。視線の先で、ガラス窓の向こう側に立って、少年はじっと二階堂を見つめていた。

「花京院」

なんだよ、黙って見ているだなんて、趣味が悪い。窓際に立つ少年、だなんてまるで、B級のホラー映画みたいじゃあないか。そう思って、二階堂は少しだけ、眉をひそめる。
何か一つ文句でも言ってやろうかと、口を開いて、そこではじめて、"それがなにかおかしなこと"であったことに気づいた。静かな冷たい風が通り抜ける。二階堂の長い黒髪がさらさらと流れるように揺れた。
少年の唇がパクパクと動く。何を言っているのかは、わからなかった。けれどそれはずいぶんと高い声だったように思う。そこで初めて二階堂は目と耳を疑って、ゆっくりと瞬いて耳を澄ませた。けれど少年は何も喋らない。思わず、世界を隔てる硝子窓に触れて。にこりと微笑んだ少年はぴたりと手を合わせてきた。それが何を意味するのかは分からない。ひんやりとした感覚が両手に広がる。じんわりと体温を奪われただけだった、その隔たれた世界の向こう側で、彼は静かに微笑んでいた。
微笑んでいた、その少年を、どういうわけか、二階堂は見ていられなかった。
どこかが痛かった。ちくりと刺すような痛みではない。どくりと脈打つような痛みではない。じくりと広がる痛みでもない。どこからくるのかわからなかったそれは、『罪悪感』という感情に似ていた。

「そんな…そんな顔をするなァ――ッ!」

叩きつけた拳が鈍く重い音を起てて、二階堂は窓枠に手をかけた。力のいらない、よく滑るレールであるにもかかわらず、力づくで叩き付けるようにして押し開けたために、ガラス窓がぱしんと大げさな音を起てて、二階堂の足が大股に敷居を跨ぐ。胸ぐらを掴んだが、少年はびくりともしなかった。苛つきを抑えられずに、二階堂は目を伏せて、吐き捨てるように言った。

「やめろよッ!そんな風に……まるで陽炎を見るみたいな目で、私のことを見てくれるなといっているんだッ!」

と、その瞬間。ぱきん。なにかが破れるような音がした。がらがらと崩れるようにして、少年だと思っていたものが崩壊する。目を剥いた。何が起きたのか、わからなかった。腰が抜けたかのように、へなへなとその場に膝を折った彼女を包み込む空気が、柔らかくて、あたたかくて、その端正な顔が歪む。
ほとんど泣きそうな顔をしてみせた彼女の前に、歩み寄る一つの影があった。

「君はいつだって、わたしの特別なひとなんだ」

もの静かなその口調に、彼女はこれでもかというほどの、思い切り苦い顔をしてみせた。

「それを、やめろっていっているんだ。……だいたい、第一、"わたし"だなんて。君らしくもない。いいこぶって、君はそんな奴じゃあなかったはずだ」
「そうだね、そうだったかもしれない」
「心にもないで、肯定するような返事をするなよ」
「そんなことはないよ、だって君が、現にこうして、ここにいるじゃあないか」

深い赤色の双眸を、彼は静かに覗き込む。
かつて彼が彼女に干渉したように、あの時の彼女は、彼に干渉した。
歩み寄られたのと同じ歩数だけ、歩み寄った。
等価交換。彼女の、誠実。
それが、きっかけ。
ああ、なんて単純な。
それから、まるでまったく、踏み外していたのかもしれない。
もう戻ることもできない。あの時、自分は確かに覚悟していたのだから。

「ずっと、さびしかった。私も、君も」

二階堂は薄く目を開いた。海の向こうには、白みはじめた空が広がっていた。いつの間に眠っていたのだろう。ふと見やれば、ベッドサイドに据えられたテーブルの上には、黒いコートが畳まれもせずに広がっていた。ばらばらと溢れた金糸のような髪が鬱陶しくて、右手で雑に掻き上げる。その眉間には皺が寄っていた。
とても、何か確信に、近いような夢を見ていたとたしかに思うのに、なにがあったのか、まったく思い出せなかった。




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