チェックインまでにまだ五時間程あるので、ロビーで休憩したら食事にでもいこうという話だった。旅行会社から支給されたのが二人部屋が二つであるために、部屋割りで少々揉めているらしい。 二階堂はベッドがふかふかならばなんでもいいと議論をそっちのけて、ふらふらと広いロビーを物色して回ることにした。情けなくも、腹の虫が鳴る。どうして自分と承太郎がいない間に決まらなかったんだと内心毒づきながら、きょろきょろとあたりを見回していたときのことだった。 「美しいお嬢さん、すみませんが、道を聞きたい」 「……どこへの」 「ここの、この通りなんですが…」 渡された地図には、先ほど見かけた通りの名が書いてあった。すぐそこだと指差してやると、男は大げさに礼を言う。 「本当に綺麗なお嬢さんだ。どちらから?」 「……無駄なことには答えない主義だ」 「オオ、それは失礼しました、ちょうど、そろそろお昼だ。一緒に昼食でも…」 「連れがいる」 二階堂はずっぱり、相手の目も見ずに断って踵を返す。ナンパに付き合っている暇など無い。 その後ろ姿を目で追いながら、男のどろりと濁った瞳が笑ったような気がしたのを、ユノーだけがじっと見ていた。 「おい要、何をしておる。そろそろ行くぞ」 「……おなかすいた」 「わしもじゃ。今、フロントに訊いたら、すぐそこに美味い中華があるらしいぞ…」 二階堂は黙って頷く。きっとジョセフや承太郎が気に入るレベルの、味には期待できる料理であるはずだと思って、無表情の下では少しだけ心が弾んでいた。ジョセフのいう"うまいもの"に、ハズレは少ない(二階堂は人並み以上に美味しい食事や心地よく肌触りのよいタオルやスプリングのやわらかなベッドを愛する傾向にある。)がやがやとした通りを抜けて、すこし閑静な坂道を登った。目的の店はどこだったか、ジョセフの後ろを一行は歩くも、なかなかたどり着けない。大坑道の名を冠した通りをずいぶんと歩いた所で、ジョセフは満足そうな顔をして立ち止まった。豪奢な金の装飾がされたいかにも『中華』をゴリ押ししてくるデザインの扉をジョセフが押して、ウエイターに人数を告げる。 (ちっとも"すぐそこ"じゃなかったじゃないか…) 二階堂は少し不機嫌になっていたが、待つこともなく中に通されたので、おとなしく承太郎と花京院の間に腰を下ろした。 ようやく五人で揃って話が出来るな、と、アヴドゥルが口を切った。 「しかし…50日いないにDIOに出会わなければ。……ホリィさんの命が危険なことは…前に言いましたな」 「……あの飛行機なら、今頃はカイロに着いているものを」 花京院が苦々しく言った。二階堂が微妙な顔をしている隣で、承太郎は重い息をついた。二階堂はジョセフを見やる。彼が何も考えていないわけがない、と思ったからだ。彼は策士だ。二階堂は今まで何度も彼に"嵌められた"経験があるから、よく知っている。(そしてその多くでイラッとさせられてきた訳であるが、その多くはプラスになることも多かった。)案の定ジョセフは一つだけ頷いて、口を開く。 「わかっている。しかし案ずるのはまだ早い……100年前のジュールペルヌの小説では、80日間で世界一周四万キロを旅する話がある。汽車とか蒸気船の時代だぞ?飛行機でなくとも、50日もあれば一万キロのエジプトまでわけなく行けるさ。そこでルートだが、わしは海路を行くのを提案する。適当な大きさの船をチャーターし、マレーシア半島を回ってインド洋を突っ切る…いわば海のシルクロードを行くのだ」 「わたしもそれがいいと思う。陸は国境がめんどうだし、ヒマラヤや砂漠があってもしトラブったら足止めをくらう危険が一杯だ」 「わたしはそんな所両方行ったことがないのでなんとも言えない。おふたりに従うよ」 「同じ」 二階堂も承太郎に続いて、黙ってこくりと頷いた。海路というのも若干心配が残るが、陸にいればそれだけ『足跡』が残る。海の上ならば、頻繁に狙われる可能性も減るだろうと思ってのことだった。花京院の淹れてくれたプアール茶に口をつける。その香りのよさに、ほう、と感心の息を漏らす。不機嫌のメーターはぐんとゼロに近づいていた。それを察してだろうか、花京院がくすりと笑いをこぼし、急須の蓋をずらす。承太郎と二階堂の奇異の視線を浴びて、花京院は言った。 「これはお茶のおかわりを欲しい、のサインだよ。香港では茶瓶の蓋をずらしておくと、お変わりを持ってきてくれるんだ。また人にお茶を茶碗に注いでもらったときは、人差し指でトントンと二回テーブルを叩く。これがありがとう、のサインさ」 そんなことを知っている、というところを見ると、花京院は香港に来たことでもあるのだろうかと思って、そういえば彼の家は経済的にとても潤っていたということを思い出して、だからエジプトに家族旅行か、とひとりごちる。聞き取れなかったのか、花京院は首を傾げる。二階堂もジョセフと、過去に何度か香港に来たことがあったが、そんな作法は知らなかった。所詮育ちの違いというやつだろうか。自分が記憶してきたことといえば、そういえばくだらない雑学のような知識ばっかりではないかと思わないことも無い。ハエの名前が分かってマナーを知らないというのも、おかしな話だと思った。 ふうん、と声を漏らした二階堂は、花京院をまねて、テーブルを叩いてみる。 「ありがとう、ねえ」 ずいぶんと長い間、口にしていなかった単語のように思った。自分も大概、無礼千万な人間なのかもしれない。反抗期か。心の中で苦虫を潰したような感覚が広がって、二階堂は無表情をぴくりと歪める。茶碗の中で茶柱が踊った。 ← ▼ → ×
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