純然たる誠実に告ぐ | ナノ

物音が聞こえたような気がして、花京院はそれまで見つめていた一枚の写真から目線を上げる。誰かが来たのかもしれない。彼は縁側へとつながる障子に目をやった。
障子と磨りガラスは11月の明るい月の光にこうこうと照らされて、青白くぼんやりと光っていた。そこに見えたのは、大きな扇状の"何か"。そしてその隣には、細身の人影があった。すうっと扇状の影から、襖をすり抜けるようにして白い獣が姿を現した。それは額にきらきらと月光を反射する赤い宝石を埋め込まれた白狐で、扇状のものは六本の狐の尾であった。それを交互に振りながら、花京院にするすると近づいてくる。花京院は少し驚いたように息を呑んだが、初めて見たはずのその狐が一体何であったのか、既にどこかで見たことがあるような気がして、その正体はわかったような気がしていた。無言のまま、狐にそっと触れる。つやつや月の光をうつす滑らかな肌触りの毛と、その首を覆う幾重もの板はひんやりとつめたい。そんな感覚が指に残る。けれど狐とは対照的に、人影は未だ部屋に入ってくる素振りはまったくみせず、まるでじっとしていた。

「要…?」

花京院が呟く。人影がピクリと動いたのが分かった。そして彼は思った。きっと彼女は、自分から、戸を開きかねているのだ、と。彼女の心はきっと、10年前の、あの日のままでいるのだろう。花京院の心臓が跳ねる。あまり思い出したくないことには変わりなかったが、それでも。

「そこに、いるんだろう?」

花京院は狐を撫でながら、静かに言った。影は答えない。動かないでいる。しかしそれはきっと、彼女なりの最大限の肯定だ。そう思って、花京院は、音を起てずにそっと立ち上がった。狐は彼の腕や体に、その尾を緩く巻き付けてきた。ふかふかしていて、心地よい。もうほとんど忘れかけていたが、自分が憶えている限りの、かつての触り心地とは大違いだと、花京院は薄く笑った。そして彼は、一枚の障子戸を挟んで、向き合う形で影の前に立つ。右手が、格子に触れた。
それを開くのは容易くて、ほとんど力も入れずに、一瞬で。
いとも簡単に二人の隔たりはなくなってしまった。
月の光に照らされていた彼女に、花京院は息を呑んだ。すっと通った高い鼻に、厚い唇。その長い髪の毛を光に反射させ、黒く癖のなかった髪は頭の先から三分の一ほどだけで、あとは月明かりに照らされて透き通った、白金色の、少し巻いたような癖毛になっていた。それはかつての自分が憶えていた姿から、"日本人らしさ"というものをすっかり引き算してしまったような面立ちで、花京院は分かっていたにもかかわらず、戸惑いを隠せない。自分と同じか、それよりも高かった彼女の身長も、今では自分の方が10センチほども高くなっていたせいもあるだろうか。
二階堂は、彼がこの隔たりを自分から開くとは、微塵にも思わなかったのだろう。少し驚いたように目を見開いていた。その瞳の中にあった色だけは、かつての自分が知っているそれと同じで、そして、その紅の向こうに、自分が三ヶ月前に肌で感じた恐怖とまったく同質のそれが渦巻いているのを花京院は感じた。けれど。

「要」

柔らかく、しかしどこか、ぎこちなく、微笑む。
そしてほとんど泣きそうな顔をしてみせた二階堂の頬に、そっと触れた。

「長い間、ずっと、君のことばかり気にかけていた」

眉尻を下げて、苦笑してみせた花京院に、二階堂は目頭が熱くなって、花京院の手首を握りしめて、ぐっと目を閉じる。

「君ってやつは…本当に……」

二階堂は絞り出すようにして、なんとか言葉を吐き出した。そのせいで、声は不自然に震えていた。肺に籠った空気すら熱い。頭の中は、もう何を言ったらいいのかわからないで、いっぱいいっぱいだった。

「要、わたしはひどい過ちを犯してしまった。肉の芽なんかでDIOに心酔させられて……我ながら情けない。承太郎のおかげで、目が覚めたんだ。……君にはずいぶん、心配をかけたようだね」

花京院は自嘲するように言った。半ば独白のようなその声色に、二階堂は花京院の目を見上げる。もう、彼女はいつもの調子に戻っていた。そして静かな声で、口を切る。

「DIOに会ったんだって?」
「ああ、三ヶ月前……エジプトで」

エジプト…、二階堂は静かに復唱した。

「でも、君が無事で、ほんとうによかった。あの男は……DIOは、君を捜しているんだ」

花京院の言葉に、二階堂は小さく眉をひそめた。どういう意味だ、という顔だ。十年前のそれと、まったく変わらない。そして花京院はぽつりぽつりと語り始める。自分が三ヶ月前、エジプトに家族旅行をしたこと、ナイル川のあたりで、DIOという男に出会ったこと。おぞましい殺気にすっかり怯え、結果肉の芽を植え付けられてしまったこと。DIOの手先として、彼と因縁深いジョースター家の末裔である『空条承太郎』の始末を、そして、『二階堂要』という、彼によって念写されたポラロイドに映された赤い瞳の少女を見つけ出し、彼の元へ献上することを目的として、差し向けられたのだということを。



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