純然たる誠実に告ぐ | ナノ

石段を降りながら、二階堂はもう二度とこの家に帰ることはないのだろうと思って、中程まで下りたその後ろ最後に振り返る。未だに頂上にいるヴォルペコーダ・ユノーが夕陽を浴びていて、どうして降りてこないのだろうと二階堂は首を傾げた。その宝石の瞳をきらりと反射させる。二階堂は何か見間違えたかと思って、無表情だった顔の眉をぴくりと動かした。狐はじっと二階堂を見つめている。見つめながら、その宝石のような瞳がずるずると頭の中央に収まった。すると狐はぶるりと一度大きく身震いして、一度だけケーンと高く鳴いた。二階堂は初めてこの狐の鳴き声を聞いて、そして彼女は目を見開く。
狐が、大きく口を開いて、その中からずるり、と何かが姿を現した。白くて大きいそれは二階堂を見つめながら、ゆるゆると二階堂の前に降りてきた。
それは額に大きな赤色の宝石が埋め込まれた、白狐のような形をしていた。
首は幾重にも重なった白い金属のような鱗のついた膜で幾重にも覆われ、その下からぶら下がる両腕は人のそれによく似た形をしていた。手には長い爪と五本の指があって、下半身を覆う白くつやのある毛皮が、きらりと光を反射する。ふさふさとした六本の尾が、夕陽を浴びて淡い紅色に染まっていた。

「……」

二階堂は唖然としたまま、声も出なかった。空いた口が塞がらないとはまさにこのことで、今、ユノーに何が起きていたのか、全く理解できないでいた。
ユノーが両目を瞬かせる。獣のような口ががぱりと開いて、耳まで裂けたその中には鋭い牙がずらりと並んでいた。いつものように二階堂のもとまで寄って来ては、ふさふさと立派なその尾を二階堂の体に巻き付ける。今までのごわごわした感覚とはほど遠い、ここちよい柔らかさだった。その感覚を残したままだというのに、二階堂の視界から狐は徐々に、溶ける様にして姿を消していく。額の紅い宝石だけが残って、宙に浮いているかのようだった。

「ふ、ふふふ」

二階堂は堪えきれないといった表情で笑い出した。きっとその場に誰かがいたら、気でもふれたかと思うくらいに、げらげらと声を上げて笑う。初めてこんなに笑っただろう、再び姿を現した二階堂の狐は彼女のそれによく似た色の瞳を持つ目を細めた。二階堂はその頭を撫でながら、階段を下りる動作を再開する。

「また、女神とは到底言い難い姿じゃないか。きっと、孔雀も怯えて裸足で逃げ出すよ……いや、荼枳尼天はたしか女性の姿で白狐が化身?眷属?だったっけ。そうしたら、白狐で、女神。重なるけれど、あれは夜叉だとか羅刹だとかいうのに近い存在じゃあなかったか。ああ、それにしたって、なんて宗教も歴史も文化も善悪もなにもかもを混ぜこぜにしてしまったような姿なんだ!」

珍しく饒舌に、ぶつぶつと大きな独り言をいいながら、一番下の段まで下りきる。新しく建てられたビルに遮られて、日光はもう届かない。日陰になったその場所で、もう一度まじまじと狐を観察してみる。二階堂に似た濃い赤色の瞳が、まっすぐ二階堂をみつめていたが、やがて二階堂の影に溶ける様にして消えていった。二階堂はその様子を、相変わらず気味が悪いなといった表情で見つめていたが、やがて前を向いて歩き出す。
もうこの狐を『沈黙の厄(ヴォルペコーダ・ユノー)』とは呼べそうにないな、と二階堂は思った。『ベルヴォルペ・ユノー(女神の白狐)』といったところか。まったく日本的な容姿だというのに、ユノーだなんて、と、小さく苦笑をこぼした。

二階堂は結局、花京院に出会うことはできなかった。かつて彼女が何度か訪れたことのあるその家の表札には既に違う苗字が掲げられていて、玄関先にはプリムラではなくクリスマスローズが飾られていた。何も言わないまま、二階堂は踵を返して歩き出す。別に花京院に会いたかったわけじゃあない、会ったって、どう話したらいいかわからないし、今更十年前のことをどう話そうっていうんだと、自分に言い聞かせるようにして、いつもよりもすこし早足で家路についた。ただ、自分がいつ巻き込まれるかもわからない旅を前にして、彼がその旅に加わるのがいつかはわからないが、あらかじめ、出来るのであれば、予防線を張っておくに越したことは無いと思っただけだ。電車に揺られながら、弁明するようにして窓に映った自分の影を見つめた。白狐が口だけにょきりと姿を見せて、『うそつき』と口を動かした気がした。
二階堂の小さな舌打ちは、誰にも聞こえないままどこかに消えた。



×