純然たる誠実に告ぐ | ナノ

「要……?」

蚊の鳴くような、擦れた声だった。二階堂はユノーから、その声の主に向かって首を動かす。そこには、十年ぶりに、いやひょっとしたら、もっと長い月日があったかもしれない。二階堂の母の姿が、そこにはあった。
二階堂は、母はもともと容姿端麗な人だったことを覚えている。物心つくよりずっと前に、それこそ目鼻立ちがはっきり人間の顔になる前に、何も知らない赤ん坊だったときに、彼女が自分を育てていたときの記憶だ。もう前世の記憶よりもうすぼんやりとしてしまった、霞のような記憶だったけれど、二階堂はあの頃だけは、たしかにこの女性に愛されていたのを覚えている。というのも、母親の愛なくしては子どもは生き残ることはできないから、二階堂が生きていることが一種の証明だ。二階堂が愛されなくなったのは、いったいいつからのことだったか。二階堂が前世の記憶を徐々に取り戻していたころだったか。それはいったいいつだったか、もうあまりはっきりしていない。人間の記憶というものは曖昧だ。二階堂は自分の前世の記憶を、まるで小説やドラマを一通り暗記したあとのように鮮明に覚えていたが、自分の今世の記憶に関しては曖昧なところがある。

「お久しぶりです」

二階堂は静かに吐き出した。顔は相変わらず無表情なままだった。彼女の母はさきほどの修行僧に車いすを押されて、二階堂の席の前にひっそりと落ち着いた。彼女は崩れ落ちるようにして、声にならない声を出して泣いた。二階堂はしばらくして、どうやら声が出ないらしいということに気づいた。二階堂の知らない間に、彼女はずいぶん憔悴しきったような、すり切れてしまったような、消耗しきったような姿になっていた。顔の半分に残された火傷の痕と、つぎはぎにされたような傷跡が痛々しいことこの上ない。頭皮も火傷とその周りは、未だに禿げかかっていた。二階堂は彼女のその姿に、何か言おうと思って口を開いたが、吐き出すことが出来たのは空気だけだった。
おいおいとすすり泣くこの女性に何か出来ないものかと思って、ポケットのハンカチを苦し紛れに差し出す。

「要……要……」

二階堂の名前だけを繰り返し繰り返し呼んで、それはいっそ、叫んでいるかのようだった。まるで何かに贖罪を乞うかのようにして、彼女は二階堂に差し出されたハンカチに縋る。まるで老婆のように嗄れた声と、年齢の割に、乾燥して、ぱさついた肌が二階堂に触れた。二階堂の知っていたかつての手よりも、ずっと小さく、細く、まるで枯れ果てた水仙の花のようだと思った。十年という時間は、この女性をすりつぶすようにして消耗してしまったのだろう、と、二階堂はどこか冷静で、口からはただ深い深い息が溢れた。

「私は今日、貴女に会いに来たというわけではありません」

掛ける言葉が見つからないので、二階堂は自分の本心を吐き出すことにした。冷徹かもしれない、と二階堂は頭のどこかで思ったが、それを避ける義理は見当たらなかった。彼女は二階堂の母親だ、気を遣うだけ、かえって無駄だろうという判断だった。

「私は、貴女のことを恨んではいないし、怒ってもいない。この十年間、ひょっとしたらそれ以上の時間を、貴女が何かを悔やんで私を恐れて生きてきたというのなら、それは無駄な消耗だったかもしれません。私は貴女の知らないところで、貴女の知らないものとして生きてきた。そしてそれは、これからも変わらない。私に、貴女の罪や贖罪をどうこうすることはできませんし、するつもりもない」

二階堂のその言葉を、二人は目を伏せて聞いていた。まるで教会で祈りを捧げるみたいな表情だと二階堂は思って、少し眉間に皺が寄る。そんなつもりで言ったんじゃない。私は聖人君子ではないし、牧師でもない、司祭でもなんでもない、ただの人間だ。説法を説くような身分ではない。いや、人間というにも満たない、どこかおかしな生物だ。それも作り物の世界の中で生きる、あやふやな存在だ。リアリティに欠けるそんな世界で、それをただ斜に構えて生きてきた、ただの17歳の小娘だ。だからそんな表情で耳を傾けて、自分に許されようだなんて思うのは到底お門違いだと、二階堂はぐっと奥歯を噛み締めた。

「だから、もう、いいだろう。アンタはアンタの人生を生きたらいい。私のことなんか忘れて、アンタの夫を愛したらいい。私を言い訳にして、不幸だとか思うのは、もう、よしてくれ。そんなの、無駄だ」

苦虫を噛み潰したような顔の二階堂とは対象的に、母の目は大きく見開かれて、その端が歪んでしまった唇が震える。二階堂は罵られるかと思って、その紅い瞳で、まっすぐに見つめた。初めて、視線が交わったかもしれない、と、どこかぼんやり思って、そしてどこか二階堂に似たような目尻と眉頭に、やはり自分にはこの女性の血が流れているのだと自覚させられる。作り物の世界、というにはあまりにもリアリティのある現実だった。二階堂は苦い顔を解けないで、ついと視線を逸らした。
彼女は涙を流しながらぱくぱくと口を動かして、しかし声が出ることはなかった。二階堂が眉を顰めると、彼女は机の上に簡素な紙と万年筆を取り出す。利き手であろう右手の指は、五本のうち三本がくっついてしまっていた。それでなんとかペンを持ち上げて、震える指で文字を綴った。

『わたしは あなたの父を たしかに あいしていました』
『あなたによくにて うつくしく ざんこくで だれよりもせいじつな やさしいひとでした』
『ありがとう』
『わたしはこれでやっと いきているような きがします』

録でもない詭弁だと思った。馬鹿馬鹿しい、無駄な綺麗事に他ならないと、頭の中だけで罵倒した。
そして無表情のまま、席を立つ。
その時二階堂は、ほとんど初めて、彼女の母親が微笑むのを見た。
美しい人間のかたちをしていた。




×