純然たる誠実に告ぐ | ナノ

一通り泣いて泣き疲れたのか、涙が引っ込んで少々瞼が腫れぼったくなった二階堂の表情筋はもとの無表情に戻っていた。
既に深夜に近い時間になっていたから、二階堂はあらかじめジョセフがとってあったホテルの部屋に滞在することになった。申し訳ないから帰るという旨を伝えても、広いから大丈夫の一点張りでジョセフは一向に引かない。明日には東京の大学に戻る旨を先ほど秘書らしき人物と確認していたからには、二階堂はもうあの家に戻ることもないのだろうとたった一ヶ月弱滞在していた場所を思った。
カードキーを渡され、随分上の階だと訝しんだ二階堂の嫌な予感は的中することになる。

「……ジョースターさん、これは一体」
「おお、広いじゃろ!好きなところで寛げばいい」
「ハァ…」

いわゆるスイートルームというやつに本日二度目の途轍もない場違いさを感じながら、二階堂は気の抜けたような返事をした。
とりあえずトイレとクローゼットの場所を訊こうと思って、名前は口を開く。

「ジョースターさん」
「なんじゃ、堅苦しいのう。気軽にジョジョと呼んでくれて構わんよ」

ジョセフ・ジョースター、名前の頭を取って、ジョジョ。二階堂はずいぶん昔、そんな名前の漫画があったなぁ、と、思って、そして何故か花京院を思い出して、右耳のピアスに無意識に手が伸びて、そして。
背中の毛穴が全て泡立つような寒気を感じた。
ジョセフはピシリと固まって動かない二階堂の顔を覗き込む。彼女は無表情のまま、蝋人形博物館のそれがギシギシと音を起てて動き出したかと思うくらいにぎこちない動作で上着を脱ぎながら口を開いた。

「すみません、ジョースターさん、さっき、もし、聞き逃していたら、申し訳ないんですが」
「だからジョジョでいいと言っとろうが……なんじゃ?」
「私の祖先の、吸血鬼の名前って、何でしたっけ?」

ジョセフはそう言えば言っとらんかったかのう、と顎鬚を撫でながら、特に声をひそめるでもなく、その名を口にした。

「DIOじゃよ」

二階堂はその名前に、全て合点がいったと頭の何処かで思うと同時に、今目の前で起きていること全て信じられなくなって、頬を思いきり抓ってみた。頬から一筋の血液が垂れたが、そんなベタなことをしても目が醒めるなんてことはなかった。痛みは二階堂の今までの人生が夢物語だとは言わなかったものの、二階堂の思考回路は全力でそれを否定したがっていたし、けれどバクバクと大げさに脈打つ心臓は自分がいかに『こんなちっぽけな思いつきのような仮説』に動揺しているのかを窺い知らせた。

「どうした?顔色がずいぶんと悪そうじゃが」
「いえ、あの、疲れかと思います。シャワーお借りしていいですか」

いつものポーカーフェースを苦し紛れに発動させ、二階堂はその台詞を絞り出したが、内心は何が起きているのか、まったくわけがわからないでいた。シャワールームでこれでもかというほど熱い湯を頭からかぶりながら、二階堂は考える。
二階堂は自分が今の今まで、ジョジョの奇妙な冒険という漫画の中で生きてきたのか、という仮説を暫定的に肯定することにした。そして二階堂はその漫画の内容をまったくといっていい程知らない自分を危うく呪いかける。覚えていないどころか、二階堂が読んだことがあるのはたった一冊の単行本で、それがどこのどういう場面はおぼろげだが、物語の佳境に差し掛かったような部分だったことを憶えている。なぜ全巻貸してくれなかったんだと当時の友人を思ってももう遅い。遅すぎてもはや始まってるくらいだ。二階堂の人生が。

(ジョセフ・ジョースターはおそらく、『ジョジョ』だ)

彼が主人公格の人間であることは間違いないが、しかし彼はもう年老いている。少なくとも老人が奇妙な冒険をするとは思えない。ということは、もうこれは物語が終わったあとの世界なのだろうか。二階堂は今の自分が、物語のどこにいるのかを必死に整理していた。そして自分が読んだことのある巻がいったいどこに当てはまるのかを考える。二階堂はDIOという男の名前を知っていた。彼が誰かを殺すシーンを読んだ覚えがある。殺された男の生き様がかっこいいんだと友人が熱く語っていたのを憶えている。吸血鬼DIOはジョセフの祖父が倒したと言っていたが、二階堂が読んだ巻では生きていた。
ということは、やはり二階堂の知っているジョジョははるか昔に終わっているのだろうか。
二階堂は鏡を覗き込む。
濡れた髪の毛を掻き上げると、いつものようにそこにある、キラキラ光る緑色のピアスが目に入った。

「花京院」

その名を口にして、二階堂はふたたび、思い出す。
そうだ。
思い出した。
私は、彼を知っていた。
五年前、彼に出会うよりもずっと昔から、

二階堂は花京院の死を、既に知っていた。



×