最悪な気分のまま自宅の玄関をくぐると、あまりの騒々しさに二階堂はもしかしてさっきの事件をだれかに見られたのかとひやりとする。しかし事態はもっと最悪に近づいていた。悪いこととはよくもまあ、こんなに立て続けに起こるものだと思って二階堂はおおきなため息をつく。ここ三ヶ月くらいの自分の幸せだった日常を思い出して、その反動かと思うくらいだった。 二階堂の母親が、どうやら事故に遭ったらしい。 奇跡的に一命を取り留めたとかで、その夫は今ちょうど、入院の手続きその他諸々を済ませて帰って来たところだという。自分の部屋へ帰ろうとしたときに、修行僧の何人かが噂していた。 「自分の母親が生死をさまよっているっていうのに、なんだあの子どもは…まるで無表情じゃないか」 「可哀想にな、きっとあの母親も長くないだろう」 「退院しても要介護だって聞きました?」 「まったく、こっちの身にもなれってんだよなァ……俺はあんな女の尻拭いなんてごめんだぜ」 文字通りなァ、と誰かが言って、その場にいる輩は全員吹き出した。げらげら笑う彼らに、二階堂は「もっともだ」と思っただけなので、何も言い返すつもりもなかった。 それ以上に二階堂は心を消耗していた。ユノーはもう、二階堂の周りを飛び回ったりしていないし、どこへ行ったかと思えば、さっきから二階堂の影に隠れてしまっていたのだった。 力なく自分の部屋の畳の上に座り込むと、深いため息が出た。 「ああ、もう、泣きたい」 ぽつりと呻くように呟いた。だれにも聞こえない、二階堂の本心だったが、彼女の目は乾いたままだった。 しばらく抜け殻のようにじっとしていた二階堂だったが、やがて二階堂の部屋の戸を叩く音が聞こえて、それがまるで死刑執行の宣告のように感じられて、二階堂は重い体を引きずるようにしてそれに応じた。久しぶりに顔を合わせる、彼女の父親だった。 大柄なその男を部屋に招き入れて、向かい合って腰を下ろす。住職は胡座をかき、二階堂は膝を折って正座した。 「お前は聡いから、もうわかっているのかもしれないな」 「ええ」 彼女の父親はそう切り出した。そして彼の身に今日起こった出来事を淡々と語り始め、自分と二階堂のこれからについて語った。しばらくの間、母親方の親戚と暮らしてほしいという趣旨のものだった。 「見ての通り、ここには人手はあるが、任せられることは限られている」 「はい。今まで私にかけて頂いた分が、どうにも手が回らなくなる、ということですね」 だからお前は他所へ行け、ということだろう。二階堂はまっすぐに男を見ていた。その射抜くような視線にうろたえるこの男を、とても不憫に思った。 「当然のことと言えばそれまでです。アンタには、その権利がある」 「……」 「おそらく、私は、アンタの娘じゃない」 「……ああ」 彼はひどく申し訳なさそうに表情を歪めていた。しかしその実、本心はどう思っているのだろう。二階堂はひどく冷徹だった。喜んでいるのだろうか、背負い込んだ自分を呪っているのだろうか。そして思うに、この男には非が無い、ということだった。むしろ今まで、よく耐えてきたものだと他人事のように評価する。 「お前が化け物と呼ばれていることも、何もかも、本当にすまなかった」 「どうして父さんが謝るんですか」 贖罪を乞うこの男に、二階堂はかけてやる情けなどどこにも持っていない。なぜなら彼らは他人だったからだ。どこまでも心が通じない、ましてやそもそも、本当に血の通わない親子であったのだから。二階堂の瞳をこの男は持っていないし、二階堂の顔つきだってどこにも似通った点が無い。そして何より、二階堂は、ユノーのことを抜きにしたって、本当に、とてつもない化け物だったのだと先ほど自覚したばかりだ。自分は、全く、まるで何かがおかしい。目の前に佇む普通の人間と同じようなゲノムの構造を持っているハズなのに、なにもかも異なっている、そんな非現実に彼女は半ば絶望していた。 「俺はお前を父親として愛している。いや、愛していたつもりだったんだ。けれど、すまない」 もう、無理なんだ、と言った。 しばらく見ないうちに、ひどく老け込んでしまったこの哀れな男に掛ける言葉が見つからなくて、二階堂は黙って頷くことしか出来なかった。 二階堂はこの手の不誠実には、いよいよ慣れきっていた。 二階堂の少ない荷物は、翌日が土曜日だったのをいいことにさっさと宅急便に出されることになった。二階堂自信の身柄も、月曜を待たずに送り出され、結局花京院に別れを言うことも、彼女の犯した不誠実を償うことも出来ずにいた。何より二階堂自身が、花京院とどう顔を合わせたらいいのかも分からなかったから、もう半ば投げやりな気分でいたというのもある。後ろ髪ひかれる思いすらもう、どうすることもできなかった。 ← ▼ → ×
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