純然たる誠実に告ぐ | ナノ

図書館からの帰り道、いつも花京院と分かれるところの交差点で、二階堂はいつだかと同じユノーの動作に今来た道を振り返る。その異変に花京院も気づいたのか、様子のおかしなユノーを見つめた。今回は以前と違って人通りが皆無の道路だった。故に、その異変も一目瞭然であった。

「お嬢ちゃん、綺麗なおめめをしているね?」

声をかけてきたのは、息の荒い中年男性だった。覚えのある気配に、この男かと二階堂は身構える。

「まるで蝙蝠の血をべっこう飴のように固めたみたいな色だ」
「……」

男は手に鈍く光るナイフを持っていた。それに気づいても真っすぐに睨みつけ、返事をしない二階堂に、花京院は小さく息をのむ。荒い息を繰り返しながら徐々に間を詰めてくる男に、二階堂は花京院をかばうようにして立った。

「花京院、逃げろ」
「でも…」
「でもじゃない、逃げろ」

私は大丈夫だから、と花京院に目を合わせて言った、その時。

「要ちゃんのその瞳はッ!!!誰のものでもないッ!!俺のものだァアアア!!!」

奇声を発しながら男がナイフを振り上げて、それでも二階堂はどこか冷静だった。
しかしその矛先が二階堂を通り過ぎて、思わず目を見張る。
とっさにユノーが花京院を突き飛ばして、それでようやく、この男の憎悪の矛先が自分ではなく花京院に向いていたことを悟った。
うずくまった花京院の頬から一筋の赤い液体がこぼれる。
その瞬間、二階堂の瞳はまったく信じられないものでも見たかのように見開かれて、彼女は喉を抑えた。
彼女の喉は、底知れぬ渇きを訴えていた。そしてその渇きを覆うようにして、全身の血液が沸き立ったかのような熱が二階堂の心を支配する。

「お前……花京院に何してくれてんだよ」

二階堂は男を睨みつけた。ぐらぐらと煮え立つような二階堂の怒りに反して、おぞましいほどまでの彼女の殺気にその場の空気はピン、と氷が張りつめたようだった。二階堂の紅い瞳は爛々と輝いていて、それに男は光悦の表情を浮かべる。なにやらわけのわからないことを叫んで、ナイフを振り回し、今度は二階堂に突進して来た。

「無駄なんだよ。そんなもの、全部」

ひらりとかわして、男の下半身にぶら下がる急所に強烈な蹴りを叩き込む。そのまま二階堂には身に余る体躯の男の腕をひねり上げ、電柱に向かって男の体を叩き付けた。男の顔が苦痛に歪む。地に伏したその男の頭をまるでサッカーでもするかのように左足で蹴り上げ、宙に浮いたそれに今度は右足の踵で強烈な回し蹴りを叩き込んだ。二階堂にはどのタイミングでどうダメージを与えれば相手にとって最悪の効果が期待出来るのか、手に取るように分かるような気がしていた。更に鳩尾を蹴り上げても、男を踏みつけても、足りない、もっとだ。もっと、もっと!灼けるような喉の渇きは二階堂にささやいているようだった。
もうほとんど人相がわからなくなってしまったような、顔中からありとあらゆる水分を垂れ流す男がビクビクと痙攣しながら失禁する。虫の息のそれに、文字通り道端の汚物を見るような目はそのまま、二階堂は男が持っていたナイフを振りかぶる。二階堂はそれをどこに突き立てたらいいかを知っていた。まるで迷いなく振り下ろす動作に入る、ほんの0.3秒前、花京院が叫んだ。

「要!!」

その叫び声に、二階堂ふっと呼び戻されるようにして我に還った。「だめだよ、要…」弱々しく震えたその声に、二階堂は今の今まで自分がやろうとしていたことにぞっとする。火が消え入るように、二階堂を支配していた喉の渇きが止んで、液体窒素が燃えるような憤怒はピタリと止んだ。金属音を起てて、二階堂の手からナイフが転がり落ちる。
そして花京院の足元に広がる吐瀉物を見つめて、「ああ、自分はなんてことをしてしまったんだ」と心から後悔した。二階堂には、彼がこの男のせいで吐いたとは到底思えなかったし、花京院は実際、二階堂を取り巻く、まるで人間離れしてしまった殺気にあてられていた。彼の両手は握りこぶしをつくったまま、ぶるぶると震えている。きっと自分は彼に強烈な恐怖を植え付けたに違いない。二階堂は胃の中に氷を突っ込まれたような気分だった。そのうえ、『自分が今、花京院に対してとてつもない不誠実を働いた』という事実で、頭に鉛を打ち込まれたような気分になった。

「ごめん」

一言、ぽつりと漏らした二階堂のその声も震えていた。花京院も、いつものような笑顔を浮かべることはできなかった。その場に立ち尽くす二人に、しばらく気まずい沈黙が流れる。二階堂は花京院に触れることができなかったし、花京院は口元を抑えたまま、どこか怯えたような瞳で二階堂を見つめていた。

「ごめん、花京院」

もうどうすることもできなくなって、二階堂はもう一度だけつぶやくと、逃げるようにしてその場を後にした。

(きっともう、花京院がいつものあの笑顔を向けてくれることも、ないだろう)

ああ、壊れてしまった。しかも、壊したのはユノーでも誰でもない、二階堂本人だ、他でもない自分がやってしまった。そう思った二階堂の心はひどく落ち込んだ。それはもう、ほとんど絶望に近いかもしれない。見上げるとヴォルペコーダ・ユノーの瞳は墨でも溶けたかのように濁って、もう光を反射することはなかった。



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