殺人魚 | ナノ

時々、息をするのをやめたくなる。吸って、吐く、この、呼吸がいけない、肺の中身は空っぽだ。肺だけじゃあない、自分の身体が、中身が、薄っぺらな皮膜に覆われただけの、まるで風船か何かのように空なのではないかという、怒りのようで、憔悴のようで、焦燥のような、漠然とした感情に襲われる。言うなれば、それは恐怖だ。限りなく純粋な、恐怖に苛まれる。拒絶が絶望へ変わり、そして呼吸に伝わる。大脳が麻痺する。息が浅く、苦しくなる。こういう時は、カップ一杯のコーヒーですら苦痛に変わる。呼吸への罪悪感と拒絶反応、水中を喘ぐベラのように。口がぱくぱくと落ち着かない、声を出そうにも捻り出せない。過呼吸でも息ができないわけでもない、惨めで情けない、空っぽの身体。
みるみる間に、膝に力が入らなくなる。
そうして、地面に吸い寄せられるかのようにずるずると蹲れば、死線の潭とはまさにこのことだ。心を支配する銷魂と内側から蝕まれるかのようなイドの発作に耐えられなくなって、きりきりと心臓の奥が痛い。きっとひびが入っている、欠陥品だ。隙間から全てが漏れだして、もうずっと昔に空っぽになってしまった。いや、そんな、ありえない。夢の中とは違う、そんなわけがない、「僕はいきている。僕は"人間"だ、貯金箱の豚じゃあないんだぜ」そう自分に言い聞かせては僅かばかりのギリギリの理性で衝動を押さえつけ、手のひらの半分までを覆っていた黒いレーヨンのシャツを捲りあげ、剥き出しになった腕に深く深く"歯を立てる"!
肉を食む感触、そうして僕は痛みを知る。
流れる血液を、視覚と嗅覚で確認する。口の中に溢れる鉄の味と逆流する胃酸を感じる。
僕はまだ、空ではない。





じっとその双眸を眺めていた。もし彼の目が濁っていなかったなら、じきに吸い込まれていただろう。部屋の窓は開け放たれて、片隅に安置されたヒータは意味をなさない。コンセントはプラグにまだしっかり刺さったままだったろう、しかし彼がそれを使っている形跡はなった。よく冷えた冬の空気は、そのまま二人の間に流れ込んでいる。とても乾いているし、彼を取り巻く全てが冷えていた。けれど寒いのは苦手ではない。自分が生まれ育った故郷の冬に比べたら、まだまだ寒いうちにも入らない。それに多少冷えている方が、ホットコーヒーの香りが際立つ。
ジョンガリは何を考えているのかわからないまま、ヴェストと向き合ったまま、沈黙をただひたすらに貫いている。語ることもないせいかもしれない。そもそもジョンガリ・Aが、話題を提供するような、人間らしい心遣いだとか人当たりだとかそういう仕草に疎いということは、ヴェストももうよく知ったことであったし、ヴェストはそれでよかった。噛み合ないぐらいでいい。それでいい。それがいい。

「いつも思ってたんだ……その目って、どれくらい見えてる?」

いつも思っていた、ということくらい、もうジョンガリは知っているのだろうし、彼にとって興味のひかれる話題でもないこともヴェストは重々承知していた。それでも逸らされることもなく向き合ったまま、囚人の水晶体はもうほとんど白濁としていて、暗い電飾の黄色い光を反射して、いっそパールを埋め込んだような鈍い輝きを放っていた。看守がこめかみへ指を這わせたせいで目を細めても、瞳孔の大きさは殆ど変わらない。ほとんど機能していないようにも思われて、ヴェストはまた、言葉を続けた。

「まだ見えていた時のことは、憶えて、いる?」

すると唇が僅かに動いた。瞼を完全に下ろして、何かをその裏側に視ているのかもしれない。
ヴェストが知ることのない世界だ。
彼の網膜に焼き付けられた光景を、ヴェストが視ることは、おそらく叶わないし、興味もない。
やがてその喉が震える。

「……あまり変わらない」

昔から、変わらなかった。
ジョンガリが"視ている"世界は、彼が"感じている"世界と一寸も変わらない。
感じることがすなわち視ることであるならば、彼は世界を、より広く視ることができていた。
彼が感じる"気流"というものは、錯覚という虚言症を患った網膜などよりも、より正確に、より精密に世界を彼の脳裏に"イメージ化"する。もともと"視て"いないも同じことだった。必要なのは"視る"ことでなどなかった。マンハッタン・トランスファーに必要なのは、ジョンガリが世界を"視る"ことではない。"想像する"ことであり、"空間を読む"ことだ。そしてかつて彼が愛してやまなかった(そして今も彼を包み込む霊とも形容できる)偉大なる神の意向に法り、獲物の生命の源へ、確実にライフル弾を"届ける"ことだ。

「手術すれば治るって聞いたことがある」
「どうせこの檻の中だ。その必要はないだろう」
「それは僕が望んだとしても……変わらないんだろうか」
「さてね」

ジョンガリが笑った。ひどく傲慢な男だと思ったからだった。この看守は粋狂にもひどく"多く"を望むが、ほんとうのところを語ることはまれだ。言葉の上澄みばかりをすくって投げかける。くだらない話題ばかりを語りかけては、右から左へ受け流されたいのだろうとばかり思っていたし、それは間違ってはいなかっただろう。しかし今日ばかりは、どこか何か"違う"ような気がして、それがやけに愉快だと思われた。
どうして愉快なのかはわからなかった。
わからないままでいいと思った。
コーヒーメーカが蒸汽と機会音を揚げる。いつものようにヴェストが立ち上がる。マグカップは二つだ、ミルクも角砂糖も、そういえば彼が持ってきたことはなかった。ジョンガリがそれらを好まないことを知っているのか、それとも彼がそれを好しとしないのか、結局のところは自分がうまいコーヒーを飲みたいだけなのかもしれない。
窓をサイドに、向かい合って座って、ベル・ヴェストはその特等席を好む。ベースボールはやっていない。明日の昼頃までプレイボールのコールが掛かることはないだろう。ピッチャーは肘を故障している。フォークが投げられないのはそのせいだ。

「なあ、クイズをしよう。おもいっきり簡単なヤツだ」

酷く明るい声だった。看守も同じく上機嫌だったのだろう。コーヒーの苦みが喉を下っていく。無言は肯定の証だといつも通りに解釈して、看守は初めて"そのたぐい"の質問を口にした。

「僕の目は何色だと思う」
「青」
「……どうしてわかるんだ」
「さてね…俺には、俺の世界が見えている」

実のところ、ただのあてずっぽうだった。
青というがどんな色であったかすら、もう、ジョンガリは憶えてはいない。
けれど海や晴れた日の空と同じ色であったことは覚えている。
それは神の双眸ではなかった。かの眸は東の灼熱の国のあの夕陽のように、あるいは戦場に流れる鉄の匂いを帯びた生命の終わりのように、また全てを無に帰す燃え盛る業火と同じように、鮮明な色であったことを確かに記憶している。
忘れられる筈もなければ、忘れたいとも思わない。

「アンタがそれを、諦めることはできないのか?」
「俺はこれを、終わらせなくてはならない」
「僕だったら、なにも望まない」
「なぜなら……お前は、お前の嗜好で生きている」
「……良く憶えてるなあ、ジョンガリ・A」

けれど。
きっと自分は、今でこそ忘れてしまったその"青"とかいう色を、いたく気に入ることだろう。
根拠などどこにも無い確証だ。





"朝"と言うには早すぎる――冬の夜明け前のことだった。礼拝堂に祈りを捧げる囚人たちもきっとこれからぽつぽつと姿を見せることだろう。肌に突き刺すような寒さの中、看守ベル・ヴェストは聖母マリア像を前に頭を垂れる。
何度この体勢を取ったところで、彼は吐き出さねばならない罪の数を数えたことなど一度もなければ、聖母に許されたいと願うことも、何一つありはしない。空虚な祈りに意味などないうえに、彼の目的はそれではなかったから、ポージングだけが要だ。
彼は待っていた。そう、彼はただひたすらに、待っていた。

「熱心だね、ベル・ヴェスト看守部長」
「神父様」
「なにか、悩みでもあったのかな?」

微笑を湛える慈悲深い神父のその双眸に、ヴェストは眉尻を下げてばつが悪そうに視線を落とす。
「いえ…ただ、大事にしていたものを亡くしてしまいましてね」掌の小さなロザリオを握りなおす、神父はぱちくりと瞬きを落とした。

「それは…残念だったね」
「はは、大したことないですよ。……。所詮、シュミってやつでして、ええ……亡くしたのはペットです。ゴールド・フィッシュって…知ってます?」
「ああ、東洋の…」
「そうです、あの、キラキラと上品で、優雅な魚です。部屋で、三匹ほど飼っていた……かれこれ、五年くらい」

ヴェストの饒舌っぷりに、プッチは少々眉を寄せた。飾る気もなにもないのだろうが、言葉を選ぶこともしない、淡淡と、表情すら無く。ヴェストは自らの飼っていたゴールド・フィッシュについて、ぺらぺらと述べてみせる。

「でも、ヒータが壊れていたみたいで。三匹とも、水槽の潭に浮かんでいました」

それでどうにも、気が晴れなくて。ヴェストは肩をすくめて再び祈るポーズを取る。瞼を下ろし、頭を垂れて、そしてまた彼は口を開いた。

「一匹が、卵を孕んでいたんです…そして僕はその卵すらも殺した。生まれる前に死ぬ……それをプッチ神父、あなたならどう考えるのだろう」
「……それを今朝、訊ねにきた、というわけだ」
「ええ、ええ。そういうことです。僕は……僕は、生まれる前の命を殺した…僕は"残酷"でしょうか」

酷くおどけたような、それでいてどこかに影のある口調だった。胸に抱いた聖書の表紙をそっと撫でて、プッチはしばし言葉を噤む。澱みのない冷えた沈黙が二人の間に流れた。ヴェストは祈るような姿勢のまま、神父の言葉をひたすらに待つ。一度だけ、神父がため息をついた。吐息が白く立ち上り、そして消えた。

「卵が……もちろん彼らは、生まれるということを"予感"していただろう。その点、君の行いは非道く残酷に"なりうる"のかもしれない。しかし彼らが、死ぬかもしれない運命を覚悟していたのなら」

頭を垂れたその額に、手を翳すようにして語りかける。

「話は違うのかもしれない」

その手が看守の黒く巻いた髪に、ほとんど、もうあと数ミリのところで触れそうになった、その瞬間。ベル・ヴェストは再び面をぐいと持ち上げる。「いいや、プッチ神父。本当のところをいうと、僕はそれを、とても幸福だと思うんだ。彼らは満たされたまま死んだ。"生まれる"必要なんて、どこにもない。殻の中で満たされたまま死んだんだ」早々と高揚したような口調で、向き合ったそのどこまでも澄んだ眸はいっそ爛々と輝いて、神父にはぎょっとする間もなかった。神父は彼の後ろに現れた醜い人魚のビジョンを仰ぎ見る。

「ッ!…ベル・ヴェスト……君は…お前はッ!!」
「林檎をどうもありがとう、ホワイトスネイク」

アンタは、満たされてなんかいないんだろう。

「“ローリンイン・ジ・ディープ”」

僕の生は、         。







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