殺人魚 | ナノ

じゃくり。齧りつくと、爽やかな香りがヴェストの鼻をぬけた。みずみずしいそれから溢れ出した果汁を溢さないようにと啜った音にだろうか、無意識に眉を顰める。間違ってもカーペットに染みなど作らないように、細心の注意を払わなくてはならない。原則、勤務中の飲食は禁止ということになってはいるからだ。もうとっくに風化したルールであるものの、つい先日コーヒーを床にぶちまけてくれた部下がいて、おかげでコーヒーメーカーは取り上げられてしまってから、看守間でもルールの見直しが必要だとか、そういう話になったのだ。言い出したのはやけに正義漢ぶった男だった、名前は覚えていない。必要ないことはいちいち憶えておかないヴェストだが、一方彼はヴェストの名前をきちんと記憶していた。暇なやつだと思う。けれど肩書きはヴェストの方が上で、一応上司にあたるわけだから、当然のことといえば当然のことだろうか。いや、むしろ、上司であれば、肩書きで通用するだろうに、いちいち上司の名前を記憶しておくなんて、なんてマメな奴なんだろう。
いずれにせよ、あの一件以来更に名が知られてしまって、看守部長たる自分が粗相を起こすわけにはいかないという建前ができてしまったから、肩書きというものは面倒だ。

「ずいぶんとまあ、うまそうなリンゴじゃあありませんか」

投げかけられた言葉に、ヴェストは反応する素振りを見せなかった。だからちょうどモニタールームに足を踏み入れては早速小言を口にしたロッコバロッコは眉を潜めて、彼の右手にちょうどすっぽりと落ちついたワニを象った布切れ――シャーロットちゃん、と彼はもっぱら、そう呼んでいる――と見つめあい、首を傾げるようなしぐさをとったそれと同じポーズを構える。その間にも看守部長は林檎をもう一口齧って、モニターを無言で眺めていた。まるでテレビゲームのへばりつく子供さながらの反応だ、まったくこちらに関心の二文字を寄越さない。きっと聞こえていないのだろう。随分とまあ、その死んだようなやる気のなさそうな眼とは裏腹に、仕事熱心な、大変結構なことである。とはいえ、そもそも自分が彼に命じた仕事といえば、モニターに常に目を光らせ、脱走を試みる囚人がいないかをチェックすることだったし、ベル・ヴェストはそれに関してほとんど天才的といっていいほどの才能を持ち合わせている。彼が囚人の独房の移動権限を行使する際の八割ほどは、買収ではなく"そういった"理由を抱えている。ちょうど二週間ほど前にも、徒党を組んで脱走を図ろうと考えたグループが解散させられたばかりだった。ベル・ヴェストという看守は、脱獄という行為に対して心からの嫌悪を抱いているようにも見えたし、ひどく"えり好み"の激しいようにも見えた。一昨日の、ガンポイントへの囚人の立ち入り疑惑という一件のせいだろうか、気が立っているのかもしれないし、敏感になっているのかもしれない、ーというのもある。脱獄を試みる囚人がいるかもしれないという事実は、どうにも拭えないのだから。

「ダメですね、どうにも」

ひとつ大きく伸びをして、ヴェストは口を開いた。どうやらロッコバロッコが入ってきたというところは認識していたらしい。ともすれば最初の言葉はまんまとスルーされたわけである。ロッコバロッコは大きく眉をしかめては、右手の布切れと顔を見合わせるような仕草をとった。けれどヴェストはどこ吹く風といった態度で、それが余計に面白くない。頬を二回ほど、空いた左手で掻いて、ロッコバロッコは皮肉を口にした。

「口寂しくって?」
「口寂しい?」

おうむ返しに返しては眉を潜める、どうやら本当に、彼にはわかっていないようで、ロッコバロッコは呆れ返ったようにため息をついてはヴェストの右手ですっかり細くなった林檎の芯に視線を送る。ここまで言わないとわからないものかと内心呆れながら、その呆れを、全面的に表情に押し出しながら。

「それ」
「ああ…すみません、つい」

申し訳なさそうというには少々足りない表情で、ベル・ヴェストは林檎の芯をダストシュートへと放り込んだ。ロッコバロッコがここに足を運んだのは、彼のここのところの、素行の悪さに口を出すべきだろうという留意もあってのことだったから、ここにきてそれを出されてしまっては、余計にこの男の株も駄々下がりであって、もういっそ咎める気にすらなれない。とはいえその一方でヴェストには、そんな"くだらないこと"は全くどうでもよかったわけであるけれども。ロッコバロッコは眉間に皺を寄せたまま、目を閉じて鼻で息を吐いた。彼は彼の尺度で生きる節がある、それがじつに"よろしく"ない。何も言うことをしないロッコバロッコの代わりに、右手の"シャーロットちゃん"がぱくぱくと口を動かした。

「風紀が乱れているわ」
「そうだねシャーロットちゃん。実によろしくない」
「ええ、囚人の"脱獄未遂"がこんなに続くのは初めてだ。囚人の失踪が続くのも…全くいい兆候とは言えない。内部にも外部にも、全くいい影響とは言えない」

眉間に皺が寄ったまま、ヴェストは彼の上司の指摘のベクトルをごっそりと置き換えたものだから、ロッコバロッコの機嫌はいよいよ最悪に近づき、けれどもヴェストの言葉を無視することは出来なくて、こめかみを抑えて低く唸った。

「報告された特徴からではFE-40536かと思ったんですが、彼女にその"兆候"はない……むしろ、FE-18081のほうに、"兆候"は見られる」

ちらりとモニターに視線を投げる。ヴェストの双眸はしかと図書館の防犯カメラに映るおだんご頭を捉えていて、一挙一動から全く目を離さない。その視線を追って、ロッコバロッコは「ふむ」と小さく考えるような素振りをみせた。

「ジョリーン・クージョー…そういえば、明日…面会の予約が入っていましたね」
「親の顔がみてみたいってヤツだわ!」
「そうだねシャーロットちゃん」

それまで色のなかった看守の顔が、眉を顰める。

「クージョー…」

クージョー・ジョリーン。

視界が再び、モニターへと移動した。もう彼の耳に、所長の小言は届きそうにない。





ベル・ヴェストは人を殺していたということを、エンポリオは知っている。
だから彼は自分の母親を殺した"ホワイトスネイク"を、もうずいぶんと長い間、ヴェストだと疑ってやまなかったのだから。いかんせんその手口が、"ホワイトスネイク"に似ていたというのがある。彼の母親はある日、とある隔離された場所で秘密裏に殺害され、そしてドロドロに溶かされてしまった。骨が僅かに残っていたことだけがエンポリオにとって彼女がそこで息絶えたのだという唯一の証明であったが、それさえなければ、この水族館の誰にも彼女の死は認識されなかっただろう。彼の母は礼拝堂の隣に位置された墓地の、冷たい墓標に刻まれた名前だけ。行方不明になったとされてから、遺体の目撃情報もないおかげで、彼女は死んだことになっている。遺体の葬られなかったおかげで、弔いの言葉とともに刻まれた無機質なアルファベットの文字列だけがそこに彼女が確かに存在したことを証明する。エンポリオは時々真夜中の人が居ない時ばかりを見計らってこっそりとその墓標を訪れてみるのだけれど、彼にはそうして名を刻むことが、彼の母にとって幸福なのか、それとも不幸なのか、判別することができなかった。

「君の母親はそこにはいない、棺の中身は空っぽだ」
「わかってるよ」

きっとエンポリオに出歩かれることが不安なのだろう、ベル・ヴェストはこうしてぼうっとしているエンポリオの背後から声をかけてくるようになった。彼は古ぼけたグローブを片手に持っていることが度々あって、けれどキャッチボールをしたことは、まだない。今日も彼の片手を占領しているそれは、使い古された備品の色とも違っていて、ずいぶん良い革を使っているのだろう、色褪せて尚黒々としている。縫い付けられたワッペンが薄い光を浴びて、そのロゴが自分の帽子とユニフォームに刻まれたチームの名前と一致していたことに気づいたのは、今日が初めてだった。
ヴェストはグローブを持ってこそいたけれど、エンポリオは実は持っていなくて、運動場の倉庫で山になっているそれをたまにくすねてきて、使ったのならばもとあった場所にそっと戻しておくもので、それを知ってもいるのだろう。キャッチボールに誘ったりはしない。なんのために持っているのかはわからなかった。

「ボールは?」
「持ってないよ、置いてきちゃったから」
「そうか」

ヴェストは残念そうに眉尻を下げる。

「キャッチボールは好きか」
「うん」
「ボールが返ってくるのが、恐ろしいと思ったことは?」
「…?」
「もしも相手が居ないのなら。ボールは投げればどこまでも飛んでいく。壁打ちでもないかぎり…地に落ちれば転がるだろ。俺のもとへ返ってくるなんてことは…そうあったもんじゃあない。まれだろう。けれどそれでは人間は満足しない。なぜかわかるか?」
「返ってくることが嬉しいから?」
「返ってくることによって、自分が"投げた"ってことを実感出来るからだ…満足するんだ」
「投げたってことを認識するために?」
「ああ。"かえる"ということは、それだけで人間を満たす」
「壁うちは?」
「もっと幸せだ。」

ヴェストは眉尻を下げて笑う。諦めたような笑みだ。「けれど"いつだって壁がある"とは限らない」きっと何かの喩えなのだろうとは思った。けれど何を意図しているのかわからなくて、わからないなりに、ふうん、とエンポリオは小さな相づちを落とした。
彼のヴェストへの疑念は既に払拭されている。彼のスタンドは、一見それと似ているようにも思えたけれども、"ホワイトスネイク"の能力とはまた異なっていたからだ。彼のスタンドが窓からするりと姿を現す、どこへ行っていたのか、エンポリオは知らない。知らないけれど、想像することは出来た。

「ねえ、ヴェスト。何を考えているのかわからないけど、やめなよ、そんなこと…これ以上のことは」
「どうだかな。ぼくのことはいい、それよりも、子どもはもうそろそろ寝る時間だ」
「何をそんなに調べているの?」
「君には関係のないことだ」

しかしヴェストは言葉を切って、思い出したように言葉を続けた。

「いいか、エンポリオ。明日の昼、この囚人…FE-40536に、面会人がやってくる。彼女をその面会人に"会わせるんじゃあない"ぜ」
「どういうこと?」
「君はその内容を知らなくていい……だが、これにはあの白い蛇が関わっている。君の母親を殺した奴だ。あえていうなら、そうだな。"死ぬ"よりも"怖い"ことが起こる」

彼の瞳に冗談の色は一ミリたりとも含まれていない。エンポリオは小さく息を呑む。「もう許可は下りてしまった」ヴェストはエンポリオの頭の上にグローブを押し付けるようにして、おかげで彼の表情が見えない。

「君だけなんだ、エンポリオ」

いいか、絶対に、会わせるんじゃあないぜ。
念を押すようなその言の葉を載せた声は、どこか震えているような気がした。





もしも完全な愛が心を満たすことが出来るのだとすれば、信仰を象ったような崇拝は、それ自身を愛と称することが出来ただろう。
けれどそれは盲いた世界とも似ていて、ああ、自分は知っているのだ。
深海に身を沈めるようなものである。
母なる海は彼を包み込んで、どこまでも冷たく、どこまでも優しく心を満たす。
前も後ろも、右も左も、上も下も、どこにも浮かばれない。
ただ暗闇を漂うにも、そろそろ飽いた頃だった。





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