殺人魚 | ナノ

"天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。"

その節を口にすることに、どれほどの意味があるのか。口にするにはおこがましい疑念だと思って、小さく、ほんとうに小さく、誰にも気付かれないようなため息をこっそりと落として、少しの間だけ瞼を閉じる。視界の無い世界。薄い瞼では明りを閉じることなどできないで、行き場のない思いをどうにか閉じ込めることもできなかった。全く自分は、つくづく、反吐が出るほど自分に正直なところがある。ヴェストはもう一度、ため息を吐く。胸中に蔓延る蟠りがそれで取り外せたら幾分も自由になれるし、そのために幸せが幾分か逃げたってそのくらい、たかが知れているからだ。
礼拝堂の外から、彼らが祈りを捧げる様子を眺めていた。ちょうど中では神父が説教を説いていて、福音が彼らに授けられる。同じ節、何度目だろう。生まれが厳格なカトリック教徒であったベル・ヴェストには、随分昔に刷り込み済みの教えだった。厳粛で、荘厳で、まるでいかにも"神聖なもの"であるかのようにかたどられた偶像に向けて、両手を併せ、頭を垂れ、ただひたすらに祈りを捧げる。なるほどそうさせたがるような建造物だ、と、まるで異教徒のように考える。華々しく、そしてものものしく飾りだてられた欧州の教会に比べたら随分と小さく質素な礼拝堂であろう、しかし罪人ばかり集まるこの水族館の中では、最も、整然として、磨かれて、手入れの行き届いた空間であった。まるで特別な場所のようだ、と、思って、そして。"九十九の善行よりも尊い罪人の一つの痛悔"が集まるのだから、確かに、そう称する価値はあるのかもしれない、きっと御国が訪れるのはここなのだろう。そう思ったら、これで笑えるような気もした。何も面白くなくても笑えるようになったあたりから、彼の人生は潤滑油を挿した歯車のように上手く噛み合って回っている。けれど神は言った。「だれでも、水と霊とから生まれなければ…神の国にはいることはできない」だからもし、"訪れ"があったとしたって、ヴェストには、入ることなどできないだろう。別に神の国に行きたいわけではない。ヴェストはただ、満たされたいだけだった。

「疲れているのかい?」
「……、そう見えましたか」
「なんだか思い詰めたような顔をしていたからね」

ロザリオを胸の前に抱えて、説教を終えたプッチは頬にやわらかな笑みを纏う。慈悲深い、それでいて愛に満ちた微笑みだった。汚れのない、愛に満ちた、ああ、まるで。ヴェストは脳裏に浮かんだイメージを塗りつぶして、そっと胸元のドックタグに触れる。ほんのすぐそこまで冬がやってきているせいで、ひんやりと冷たい。親指がそっと、刻まれた文字をなぞった。なんのためにしているんだと聞かれてもヴェストは曖昧にしか返事をしないし、彼自身、それ自体に意味を持たせるのにはなんとなくためらっていたから、彼だけがその意味を知っておけばいい。プッチは首を傾げてから、聖書を畳んで手を差し伸べた。「わたしでよければ、話を聞こう」ヴェストはなんとか顔に微笑を貼付けて、眉尻を下げる。

「いえ、僕は、そんな…」
「そう、"そんな"に抱え込む必要はないんだ。お茶でもしようじゃあないか。所長には、私から言っておこう」
「あの、勤務中ですから」
「いいんだ、君とは、話がしてみたいと思っていたからね。私の我侭だと思ってくれ……ちょうど、新しい紅茶があったかな」

どうやら聞く耳を持たないらしいと悟った時には言われるがまま、懺悔室の戸を潜って、勧められた通りにソファに腰掛けてしまっていた。ふだんこうして、囚人や時々看守達が面談をしているのをみたことがあったが、まさか自分がそうなるとは思わなかったと思いながらも、プッチは紅茶を淹れる支度をしていたので、断るに断れない。ヴェストは半ば諦めるようなつもりで、仕方なしに開かれたままであった聖書を眺めることにして。ティーポットとカップを二つ持ってきたプッチが、おもむろに果物かごに手を伸ばした。

「そうだ、君にこれを、お裾分けしよう」

ヴェストの掌に転がされたのは、紅く熟れた林檎だった。なんの冗談かと思って、ヴェストは反応に困って神父の顔を見上げる。彼の表情は相変わらず慈悲深い微笑みを纏っていたから、なにも冗談など含まれてはいないらしかった。

「果物はいい。口にするだけで、沈んだ心を、晴れやかにしてくれる。それとも……君は引力を信じるかい?」
「……少なくとも、ニュートンは信じていたと思いますよ」

その回答に、プッチはおおいに頷いて、そして紅茶に口をつけた。





ふと意識が落ちていたことに気付いた時には、腰掛けていた椅子が、がたり、と大げさな音を起ていていた。それにジョンガリは思わず吹き出して、ヴェストは大きく顔をしかめる。

「最悪だ……」
「まあそう言うな、コーヒーでも淹れてやろうか」
「思ってもないこと、言わないでくれよ」

全く、コーヒーを淹れるつもりはおろか、手を動かすつもりも、立ち上がるつもりもないだろう。ヴェストは喉まで迫り上がってきた不平を押し込めて、それから「起こしてくれてもよかったじゃあないか」と、それだけが小さく口からこぼれ落ちる。深いため息と一緒に、まるで水中に浮かんだあぶくのようだ。つまり、どこにも浮かばれない。冷めたフレンチ・フライと一緒。口にしても後味が悪い、塩辛いだけで、どうにも重ったるい。フロリダ・オレンジジュースでもあれば違うだろうけれど。そこまで考えて、ようやく気分が晴れて来たような気がした。ジョンガリは相変わらず笑っているので、ヴェストは窓枠に頬杖を付いた。

「……どれくらい寝てた?」
「せいぜい、十五分くらいか。疲れが溜まっているようだな」

それに関しては思い当たる節があったのだろう、とたんに渋い顔をして、呻くように相槌を打ってから口を開いた。「この前、警戒レベル4まで上がったの…ガンポイントの所に、女囚がいたとかだんだとか、なんとかで、少しね」コーヒーメーカの豆を取り替えながら、げんなりしたような口調で言った。自分の分のマグカップを手に取って、冷めきった中身は排水溝に流して、ジョンガリを振り返る。彼が自分のマグを持ち上げたので、ヴェストは二回首を縦に振った。

「…見間違いだッたのなんだの、結局有耶無耶になった。僕の管轄で、管理下。ちょうど非番の日だったっていうのに、もう、あれで所長が機嫌損ねて……困ったもんだって、ほんと」
「その翌日にこうしてマフィンを貪るお前もどうかと思うがな」
「おいおい、あの売店で売ってる、クソ不味いベルベット・マフィンと一緒にしないでくれよ。こっちはカップケーキ、ストロベリィの。本土で買ってきた……味は悪くなかったし、ほら、まだあと二つもある」
「やめておこう、甘いものは……そんなに得意ではないんだ」
「そう、ならいいけど」

ベルベット・マフィンやストロベリィの味の違いは匂いで分かるが、"シャバ"の流行りはわからない。そういえばこの男は、本土に行く機会は少ないと言っている割には、あれやこれやとこの部屋に持ち込んでくる。だからといってそれらに対してジョンガリに感想を求めるでもなく、勝手にひとりで消費したり、ここへ置いていったりして、そうして、ただ、時間を共有する。それが彼の目的なのだろうとは薄々感づいていたし、それがわからないほど鈍いわけではない。

「息苦しくならないのか」

口からこぼれ落ちたのは、ジョンガリの純粋な疑問だった。注がれたコーヒーに口をつける。それほどまでにこの看守の粋狂は度が過ぎていた。ヴェストは一度だけ目を瞬くと、口に放り込んだカップケーキの欠片を咀嚼し終わってから、やけにゆったりと間を取ってから、「どうしてそう思う」微妙に声の調子が上がって、彼が愉快であることを知らしめる。ジョンガリは肩をすくめた。

「周りの看守だとか、それとも、君の言っていた、所長だとか」
「…さてね」

相変わらずゆっくりと、落ちついた動作でコーヒーに口を付けた。息苦しいだって?ヴェストは頭の中だけで、おもいきり笑い飛ばしてやりたい気分になって。(僕はいつだって、"それ"が欲しい!)
つまるところ、すくなくとも。"だから"ヴェストは"ここ"にいるのだったし、"そう"なのであれば、あとはどうでもいいとすら思う。深く深呼吸するようにひと息を吐いた。

「蛇…か」

窓の外に視線を投げて、ヴェストは静かに呟く。彼が何を見ているのかわからない、農場に出た害獣の話にしては、随分と唐突で、ジョンガリは思わず眉を顰めた。

「なんの話だ?」
「いや、なんでもない。なんでもないんだ……強いて言うなら、さっき見た…夢の話」

どこに潜んでいるかわからない。隠れるのが上手くて、どうにもやっかいで、仕方ない。「蛇は林檎をイヴに寄越した。楽園からの追放を促すのは、いつだって蛇だ」って、神父に説教される夢を見たんだ。
そう言って、ヴェストは笑った。心から笑えているような気がした。
彼が本当にそんな夢を見たのか、ジョンガリにはわからない。しかし、ヴェストの淹れたコーヒーは、嫌いではない。
体に染み渡る、思考がクリアになる。

「僕が起きるの、待ってた?」
「さてね」

ベル・ヴェストは、最後のカップケーキを口の中に放り込んだ。





かちゃり、と、銀のスプーンがソーサーにぶつかって音を起てた。世間話が一段落ついたタイミングだったから、そのせいだろう、その音が妙に大きく感じられて、ようやくカップに落とした角砂糖は溶けきった。プッチは口の中に流れ込んだオレンジペコの香りを楽しんで、そして、林檎を手で弄ぶヴェストに向けて、ようやく口を開いた。

「君は満たされたいと言っていたが…それは承認欲求のようなものなのかな?」
「……」

この看守はあのガススタンドで出会った時よりも、ずっと言葉が少なくて"慎重に言葉を選んでいる"というのがありありと見てとれた。彼は学のないそこらの囚人や看守達とはやはり、薫陶が異なると考えて問題ないだろう。ベル・ヴェスト。彼は教養ある部類の人間だ。G.D.st重警備刑務所に勤務すること五年、大学卒業後のキャリアとして一時的にここを就職先として選んだらしく、そもそもの志望は企業就職だったと聞いたことがある。何でも彼の父親はとある工業特区の――もっぱら、近年はゴーストタウンと化したという不名誉な理由で名の知れている地区の――部品加工会社の自営業を営んでいたとかで、彼はアメリカのその産業がすっかり廃れてしまうまではそれなりに、恵まれた生活を送っていたらしい。もっとも、その父親の所得隠しが問題になった末に首が撥ねられるのと同時にビルから飛ぶまでの話だが。
そういう紆余曲折が彼の"あの"人格を形成するのに一役買ったことはきっと、いうまでもないのだろう。
彼は邪悪だろうか?プッチは目を細めて、その問いに答えを見いだすべく、ヴェストの一挙一動を観察していた。そんなことも知らず、ヴェストはようやく口を開いて、しかし視線は噛み合ない。どこか"自分を失くした"ような、そんな、弱々しさを感じさせるような口調で言った。

「自分にもわかりません。ただ、自分の内側が、空っぽであるような、そんな気がして」

掌の半分までを覆う袖を捲り上げて、その逞しい腕に刻まれた無数の噛み付かれたような痕をさらけ出しては続けた。「僕は、それが、イドなんかよりも、なによりも、ひたすら恐ろしい」自分の腕を噛みちぎる。神の教えに逆らっている、とも、捉えられかねないその行為が、自分の心を蝕む"虚"を否定する、唯一の方法なのだと、ヴェストは語った。

「信仰……いや、信仰だけではない。人を愛するだとか、そういった行為、君を君たらしめてはくれないのかい?」
「それで、後少しのところで、いつも何かを間違えていたことに気づくんです」

それは小さな疑念であったり、猜疑心であったり、そういった彼の"虚"が囁いたせいでわかるものではなく。彼のその気付きには、その"聡さ"には、事実に基づく、確信があって。プッチはカップをソーサーに戻した。

「きっと、君は、"完全"を求めすぎているのかもしれない……君が心から愛することができる者は、きっと、最初から何か…君でなく、"なにか別のもの"に満たされていないといけないのだろう」

それでも君は、その者を愛することができるのだろうか?(まるで胎児を愛するようなものだと、プッチは思う。)その問いに対して、ベルは自嘲するような、曖昧な笑みで返す。

「神父様、僕は……"もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか"」
「ニコデモの問いだね」

"何人たりとも、水と霊から生まれなければ、神の国にはいることはできない"。主の答えにはそうあった。謎掛けのような答えで返すのは、いただけないと感じて、プッチは別の節を口にした。

「"神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にある"」

悔い改めよ、"神の国は近い"のだから。
その確信は、疑念を差し込む余地無く、プッチの中に強い信念と覚悟をもたらしめている。




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