殺人魚 | ナノ

月明かりの差しこむ窓辺だった。十一月の空気は既に冷たかったが、これといった寒さを感じるほどではない。この程度の寒さなら、とっくの昔に慣れきっている。それでももし、この独房は寒いなとでも一言苦言を洩らしでもすれば。きっとあの看守は隙間風も入らない、暖房のよく効いた快適な房を提供してくれることだろうし、そうでなくとも、最近彼はここへヒータを持ち込もうかと思案しているようだった。奴がコーヒーメーカを持ち込んだのは暑さが遠のいた九月の半ば頃のことで、マグカップは当然のように二つある。全くひいきもいいところだなとジョンガリは洩らしたが、彼はこの、窓と自由のある独房を気に入っているようだったし、それはジョンガリも同じことだった。コンセントの数はとっくに足りなくなっていて、頼んでもいないのに持ってきたテーブルタップの空きもあと二つほどになっている。まったくこの独房を休憩室だとでも思っているのだろうか、服役中の殺人犯の目の前に居るという事実などすっかり忘れているのだろう。彼はそれほどまでにリラックスしきっていて、ストロベリィカップケーキを食べた後、マグカップを片手にうたた寝し始めた時は、さすがに看守としてどうなんだと思ったものだ。
思い出して、少し笑いたくなった。
ベル・ヴェストのことは、どうだろう。気に入っているのだろうか。
ジョンガリはたまに、自分でもわからなくなる。
彼にできることではなかったからだ。





囚人FE-20675、ドロシィ・パーキンは恋に落ちた。
彼女は生まれた時から"愛されたこと"しかなかったから、それがいったいどういうことなのかわからなかった。

そもそも彼女には生存競争相手たる兄弟姉妹がいなかったから、当然のように両親の愛を独占することができたし、父から授かった美貌と母から授かった愛嬌は、居るだけで彼女の存在価値をいっそうのこと尊いものにした。彼女は頭の先から足先の小指の爪まで愛されるということを息を吸うようにして実感し、その愛を享受して生きていた。彼女が生まれ育ったのはオレゴン州の自然に囲まれた小さな街であったせいもあってか、誰よりも愛されている彼女の名を知らないものはいなかったし、街に出れば誰もが彼女の生を祝福した。彼女は片田舎の小さな街の愛に溢れた、天使のような存在であったのは飾りの無い事実である。
彼女を愛さないものはいなかった。
ドロシィの世界の中心はドロシィにあって、ドロシィはその世界に愛されていた。

ヴェストが言えることはただ一つだ。
彼女の悲劇的なその生は、愛によって満たされていた。

「五ヶ月前、脱獄を試みた女囚がいたのを…君はおぼえているか?」

ミュッチャー・ミューラーとその話になったのは、昼下がりの休憩室でのことだった。安いインスタントのコーヒーに湯を注ぐ前に角砂糖を二つ落とした彼女は優秀な女看守で、普段は面会室とその先のゲートを任されている。この水族館に来てからまだほんの数年しか経っていないにも関わらず、主任看守になった近年まれに見る出世株だ。ヴェストとはあまり面識はなかったし、この時までヴェストは自分が彼女に認識されているとは思っていなかった。この狭い水族館の中で看守部長という地位についているからには『認識されていない』というのは少々言い過ぎだったかもしれないが、とにかく、彼女はダレにダレたヴェストの同僚達よりも随分と仕事に熱心なタイプであったから、まずヴェスト自身会話した回数自体が少なかったし、こうして休憩室で鉢会わせるという機会すら今まで一度もなかった。休憩室のドアを閉じながら、ヴェストは彼女の問いに正確な回答を記憶の中から捻り出す。

「FE-18046、FE-20675、FE-19050…その辺りの話ですか」

正確には、ヴェストが房を移動させた三人の女囚であったのだが。ミューラーは少々目を見開いてから「ああそうだ」と頷いて、自分へのコーヒーに口を付けた。彼女の持っていたもう片方のカップの中のコーヒーも、既に彼女の肌くらい白くて、ほとんどミルクのなのではないかと思ったが、どうやらあれは自分への労いのつもりらしいとヴェストが気付くのに時間は要さなかった。ヴェストは顔をしかめたくなって、けれどそれを堪えようと下唇を噛む。彼はコーヒーに砂糖もミルクも入れることを好まなかったし、インスタントなら、アメリカーノより濃いほうがいい。そんなヴェストの微妙な表情の変化には気付かなかったのだろう、そのまま当然のように差しだしたコーヒーを受け取って、ヴェストは小さく礼を口にしたから、ミューラーは笑顔を見せて肩をすくめた。二人で向かいあうようにして腰掛けたテーブル、ミューラーは背もたれにひじと体重を預けてほとんどミルクしか入っていないカップを揺らしながら続けた。

「そのうちで……FE-20675を殺したのは君だろう」
「……」

そこに疑問符は無い。ミューラーはベル・ヴェストという男が"能力"を持っているということに確信を持っていたわけではなかったから、男のその表情に動揺の二文字が走ることを当然のように期待していた。しかし彼は肯定も否定もしないで、カップの中のコーヒーを見つめている。なにを考えているのだろうか、表情は読めない。しかしこの沈黙、肯定とみなしてもいいだろう、と、ミューラーが"能力"を発動させようとした、その時。ヴェストが口を開いた。

「ドロシィ・パーキン」
「?」
「女囚の名前です」
「……そうだったか」
「彼女をあのような白痴にしたのは、貴女でしょう。ミューラー主任」

煙草の煙を吐き出すときのように深い息を吐いて、ヴェストはどろりとした視線をミューラーへ向けた。そこに含まれていたのは憤怒でも憎悪でもなく、ただの無感動であるように思われて、彼女は静かに息を呑む。

(殺したのだという自覚は、あったのか。)

ミューラーは視線をずらして、もう一口、コーヒーを啜った。そしてちらりと伺ったヴェストの様子、それ以上、彼は口を開くつもりは無いのだろう。カップの中で液体を揺らして、何かを考えている風にも見えたし、ただ弄んでいるだけの風にも見えたが、いずれにせよ、余裕が"ない"態ではなかった。ヴェストはミューラーの能力が"何か"知っていたわけではなかったものの、ミューラーの反応はそれを肯定するに十分で、つまり。二人はこの場において膠着状態に陥っていたといえるし、ミューラーが不利な状況にあるというこの状況を、両者は共に認識していて、しかし彼女には、彼のその言葉の真意を見抜くことができなかった。彼女が"ドロシィ・パーキン"について知らなかったことが敗因だろう、もうほとんどカップの中身を飲み干してしまってから、ミューラーは口を開いた。

「オーケイ、FE-20675が哀れな女だったってことは認めよう…『スタンド能力』を盗られて尚、私は生きていたいとは思わない……だが、愚かだった」
「……」
「"ホワイトスネイク"のオーダーなら、私は何も、君を排斥したりするつもりもないわ」

ミューラーはそれだけ言い残すと、席を立って休憩室を出て行った。ヴェストは答えない。
ただ、ミューラーの背後でゆらいだ影を見つめていた。テーブルの下からローリンイン・ジ・ディープが姿を表す。

「満たす必要はなかった」

ドロシィ・パーキンの最期。彼女が隠れていた用具倉庫。震えていたのは彼女自身が生きることを恐れていたからだった。
ドロシィはヴェストに恋をしていたのだと、ヴェストはずいぶん前から知っていた。だから彼女はその"能力"を使おうとした、"脱獄"を試みた。振り向いてほしかったのだと、三つ以上を記憶することのできなくなった彼女は延々と、懺悔するかのように嘯き続けた。
けれどもし、彼女がヴェストに胸の内を告白していなかったのなら。
ヴェストは彼女を棄て置いていたかもしれない。
ただ、女囚の抱えていたその"隙"は、ヴェストの心をじわじわと火照らせて、そして彼には、それを"満たして"やることができたから。

コーヒー入りのミルクはもうシンクに流してしまった。インスタントコーヒーの瓶を手に取って、小さなため息が口からこぼれ落ちた。





「本日付けデ、FE-40536が収監さレタ。ドういうコトダカ、わかるナ?」

ジョンガリ・Aは静かにその頭を持ち上げると、その口角を釣り上げた。笑いたい気分なのか、それとも嘆きたい気分なのか、これに関しては、自分でもわからない。とにかく彼の心臓は未だかつてないほどに昂っていて、きっと、これを喜びと称するのだろう。
もうすぐ、もうすぐだ。両手が杖を握り締める。冷たい鉄の感触、しかし心を冷やすには不十分だった。冬が近づく独房の寒さなど忘れたかのようだった。ずっと待ち侘びていた。ずっとその時を待っている。

「これでいつ、奴が現れてもおかしくないということだ」
「そウ、刑期ハ十五年だガ、一週間以内と見積もッテモ、おかしくなイダロウ」
「ところで手筈は…キッチリ整っているんだろうな?」
「勿論ダ…俺とオ前のスタンド……マンハッタン・トランスファーに敗レン者ナど居ナイ…ソレホドマデに、我々の憎シミは深イ…ソウダロウ?ジョンガリ・A」

無言で窓の外に視線を投げた。肯定の意味を持った鋭い視線に、窓の淵に腰掛けるようにして佇む、王冠を冠したような姿のスタンドは満足そうに首を縦に振った。

「あれから…使えそうなスタンド能力は手に入ったのか?」
「何時ダッて、俺の手の内二ハ必要ナダケの駒がアル」

駒、か。ジョンガリは彼の能力の餌食になったスタンド使いたちを憶った。能力を奪い取られた者、能力を与えられたもの。能力を奪い取られただけの囚人も居ただろうか、それは幸福だったのか否か。判別のつくところではない。
自分はどうだろう。この能力を持つことは幸せか、否か。
そもそも。幸福とはなんだったろう。
とりあえず、この白蛇に能力を奪われることでは無いことは確かだ。
鉄格子の向こうで、それがにやりと笑ってみせるのがわかった。
その歪んだ笑顔を、未だかつて好ましく思ったことは一度もない。そもそも、好ましいだとか、そういう感情を抱く必要がないのだから。"感情"とは"生きている"人間が抱くべき機能のようなもので、生憎、ジョンガリにそういう"機能"はない。まだ、彼には、備わっていない"機能"だった。欠損した、というよりも、"身に付いていない"に近い。そういう機能を"身につける"のは"人生"を歩んでいる者だけだ。
窓の外の気配が消える。遠ざかっていく男の"気流"に小さく息を吐いて、立ち上がっては、頑強に取り付けられた冷たい鉄格子に触れた。彼が星を見ることはない。
最後に息をしたのはいつのことだったろう、あの、燃えさかる炎を閉じ込めたような紅く美しい瞳に捕えられて、そこではじめてジョンガリは"生きた心地"というものを味わった。呼吸を知った、世界の美しさを悟った。それは彼の心を今でも引きつけてならない引力だ、ジョンガリの人生はただ唯一の、DIOという名の神のもとに、輝くことができたのだと、彼は今でも信じてやまない。
呼吸とは信仰であり、鼓動とは崇拝であった。かのDIOという力の象徴は、偶像だとかいうくだらないものではない。神はそこに、確かに存在した。圧倒的なパワーは、世界を統べる帝王に相応しかった。
けれどそれは奪われたのだ。永遠に失われてしまった。空条承太郎とかいう、極東の小国からやってきた男の手によって。
呼吸を奪われ鼓動を失ったジョンガリの内側を蔓延る憎しみと怒りは、おおよそ四半世紀もの間、彼を包み込み、満たし、そして彼を支配することになる。
その炎はもうすぐ頂点に達して、そして彼を包み込む暗闇からジョンガリを連れ出してくれるだろう。
彼の心を満たす復讐の炎が身を燃し尽くしてしまわないうちに。
ジョンガリ・Aの人生はまだ、始まっていない。





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