殺人魚 | ナノ

休日というものを与えられると、何をしたらいいのかわからなくなる。大概は自室でのんびりしていることが多い。ちょうど昼前くらいに起きだしてきて、ブランチを食べながらテレビ越しにベースボールの試合を眺めたり、いつもより大規模な洗濯や掃除をしたりしては時間を殺す。アルコールはそこまで好きじゃあないから、早めに寝て、翌日からのルーティンワークに備えるだけだ。サービスしなければならない家族もいないし、デートのセッティングをあれこれ考えなくてはならないようなガールフレンドもいない。アクティブな趣味を持っていない独身男の過ごす休日なんて、だれだってきっとそんなものだろう。例外があるとすれば、それは彼の愛でるペット達への餌が切れてしまいそうな時ぐらいで。
だからこうして、久方ぶりの休日であるというにもかかわらず、ヴェストは水族館から市街地へ向かう数少ないバスを待っていた。
照りつける日差しが眩しい、ジリジリと焼かれるような熱さがひどく心地悪くて、バス停に屋根を取り付けなかった私営のバス会社を恨むしかない。しかもご丁寧なことに、バスはいつものように遅れてやってくる。わざわざあの長い橋を越えて面会に来る人間は限られていて、それに看守の多くはヴェストと同じように寮に住んでいるから、この路線の利用者は極めて少ない。所長はマイカーと駐車場を持っていたかもしれないが、世帯持ち妻子持ちの看守達はこの公共機関を使って出勤せざるをえない、というわけだ。運賃はダウンタウンまで3ドル。採算が取れないことを見越して設定されたのだという特別料金は「決して安くはない」と、妻子持ちであるがために市街地から勤務している上司が零したのを思い出す。「まったく給料だって少ないってのにこれじゃあ、搾取されてる気分だ」そういって彼は温くなったコーラを飲み干した。彼が不満を感じるのは、これしか方法がないからかもしれない。独り身で、本土の公共機関を利用すること自体が稀であったヴェストにはあまり関係ないことであったが、バスの時間に縛られるのは嫌いだった。
ふと見やった時計は、時刻表に記載されている時刻よりも、すでに14分経過した時を指していて。
ひょっとしたら、もう、行ってしまったのかもしれない。
稀に、時刻よりも早くやってきて、発車時刻を守らないこともあると、聞いたことがないこともない。
その疑念はヴェストをその停留所で待たせる意志をたやすく圧し折り、彼を近くの涼やかなガススタンドに併設されたコンビニエンスストアに誘う。押し開けた扉の内側から吹き出す冷気がひどく心地よかった。ラックから原色のスポーツドリンクを取り出してきて(彼のお気に入りは深い青色の、炭酸の効いた、パッションフルーツ味のものだった。ヴェストは本物のパッションフルーツを食べたことはなかったが、こうも人工的な味ではないのだろうと予測している)レジに乗せた。ちょうど、硝子扉を押し開けられて括り付けられたベルが鳴ったから、ヴェストの視線がそちらに泳いで、入ってきた男と目が合った。

「おや、奇遇ですね」
「これは……神父様」
「ヴェスト、君は…夏だっていうのにまた、そんなに暑そうな格好をして……」
「長袖が暑そうだッて仰るんならその言葉、そっくりそのまま打ち返しますよ」
「それもそうだな。君は非番かい?」
「ええ、そうですね。モールに、ちょっとした…用事があって。神父様は何日ぶりの"本土"ですか?」
「そうだな……、三日くらいだろうか。君は?」

ヴェストは反射的に応えることが出来なくて、首を傾げた。最後に"本土"へどれくらいだったろうか。同僚に連れ出されて、インターの方まで、ミートパイを食べにいったのがおそらく最後だ。どうしてミートパイだったかは忘れた。今より暑くない季節だったから、ミートパイでも食べにいきたい気分になったのだろうか。

「三週間振りくらいですかね」

わからなかったので、適当に応えた。暑くはなかった気がするのは、夕方から出たからだっただけかもしれない。そういえば、あのハイウェイから下りた所でバイクを留めて、腰掛けては祈るようにして目を瞑り、じっと何かを待っていた小男はどうしているだろうか。ふと気になってみたものの、考えるのはやめた。
ヴェストは小銭を受け取って、入れ替わりに神父が、新聞とミネラルウォーターのボトルを差しだした。見れば、ちょうどバスがやって来ている。きっと十分もしないうちに、折り返しでこちらに来ることだろう。





しばらくそのまま目を閉じて耳を塞いでじっとしていたから、ヴェストはそこに少年が立っていて、自分のことを見下ろしているとはこれっぽっちも思わなかった。最初自分は幻覚でも見ているのかと思ったが、フロアには見覚えのある、事切れる寸前の男囚が気を失ったまま転がっていたからには、やはりどうやら違うらしい。「おにいさん、この人のこと、殺さなかったね」少年が呟いて、ようやく我に還った。反射的にこの部屋を満たそうかとも考えたが、あいにく、彼が入ってきた時に、閉めそびれたのだろう。扉は中途半端に開いたままで、つまり、ヴェストはこの少年を"満たす"ことができない。そして彼は"この囚人を殺さなかった"と言った。つまり、彼はヴェストの能力を知っている可能性がある、ヴェストの心焦燥が広がる。しかし少年はどこ吹く風で、未だにびくびくと痙攣を続ける男囚の脈を測って呼吸の有無を確かめてから、もういちどヴェストの顔を伺う。確認するかのように、言葉を投げかけた。

「殺さないの?」
「……僕は看守だ。殺したら、業務に支障が出る」

なにを律儀に質問に答えているんだか。ヴェストはまったく頭痛でもしそうな気分になって、この状況が呑み込めないでいた。そもそもこのフロアに"少年"が居る、ということ自体がおかしい。少年の被った帽子にはでかでかと野球チームのロゴが入っていて、同じロゴの入ったユニフォームのようなものを着ている。野球チームの試合着を彷彿とさせた。歳は10歳前後だろうか、エレメンタリーを卒業していないような少年が脈を測ったり、"殺さないの?"だなんて。まったく"冷静"すぎて、違和感しか感じない。ゴーストか?ヴェストの脳裏に浮かんだ疑問。しかし少年のどこか一部が透けているなんてことはなかったし、シックス・センスに出てくるゴースト達のように致命傷のような、身体を欠損させている様子も伺えなかった。乾ききった口の中が、ようやく言葉を取り戻す。

「君はどうしてここにいる……一般人は入れない筈だ。野球チームが社会科見学だなんて、僕は聞いていない」
「あ、えっと、ぼくは…」

そして野球少年は一旦言葉を切った。目を伏せて、言い辛そうにしている少年に、ヴェストは静かに眉間に皺を寄せる。

「……保護者はどこだ?どうやって忍び込んだのかは分からないが、簡単につまみ出せてやれるところにいるってわけじゃあ、ないんだぜ。迷子センターだってないんだ。モールじゃああるまいし…」
「あの、そうじゃなくて…ぼくは、おにいさんに聞きたいことがあって…」
「……?」
「ぼくの名前はエンポリオ。エンポリオ・アルニーニョ。もうずっと、長い間、この水族館にいる……多分、おにいさんがここに来るよりも、ずっと前から」
「…言っている意味がわからないんだが」

腰を下ろしたままだったヴェストの前に座り込んで、背中に背負っていたリュックサックがどさりと重そうな音を起てた。エンポリオと名乗った少年は帽子の唾を掴んで脱帽するとそっと胸に抱えて言った。

「ぼくは最初に謝らなくっちゃあいけない。ずっとおにいさんのことを疑っていたから…」
「疑うって、何を」
「おにいさんが、ぼくの"お母さん"を殺した"ホワイトスネイク"だと思っていた」

ヴェストの右手が米神を抑えると、小さく呻くようにして言った。「ちょっと待ってくれ、エンポリオ。君の言っていることが全く掴めない。順を追って話してくれないか」エンポリオはそれで、ヴェストに話を聞く意志があることを汲み取ったのか、すこしほっとしたような顔になって胸を撫で下ろした。ヴェストは壁に頭を預けて、低く呟く。「"ローリンイン・ジ・ディープ"」その声に驚いたのか、それともその男性型の人魚のグロテスクさに驚いたのか、エンポリオはおずおずと両手を上げる。「まって、殺さないで」ヴェストは二つの意味で驚いた。彼には、この人魚の姿が見えているということと、そして、少年はやはりこの能力を知っているということ。眉間に皺は酔ったまま、ヴェストは小さくため息をついて、先ほどエンポリオが生存を確認していた男囚を顎で指していった。

「……別に殺しはしない。今この部屋を満たしたら、今度こそそいつが死ぬだろう。それは面倒だし、そもそも今、署全体の警戒レベルが上がってる。見つからない方がいいのは、君も僕も、同じことだろう」

エンポリオは何度か首を縦に振ると、扉を閉めに向かったローリンイン・ジ・ディープをまじまじと見つめながら言った。

「それがおにいさんの"スタンド"なんだね」
「スタンド…?」
「おにいさんの側にずっと"スタンド"してる能力でしょう?だから、僕は、そう呼んでる」
「他にもいるのか、こういうものは」
「うん。ぼくも、ぼくのお母さんもそうだったし、だから……ぼくのお母さんは殺された」

おもむろに背中のリュックサックの中をまさぐると、中から何かの塊を取り出してヴェストの前に差しだす。何かに溶かされたような痕があって、ヴェストは眉を顰める。人骨。気付くまでにそう時間はかからなかった。「君の母親は女囚ってわけか」ヴェストの中で散らばっていた情報が繋がり始めたのを察したのか、エンポリオは大きく頷く。

「そうだよ。そしてその能力で、ぼくを秘密に生んで、育てた」
「……ようやく話が繋がった。で?僕がその犯人だって?」
「うん……でもそれは間違っていた。ぼくのカンチガイだったんだ…おにいさんのじゃあない。それに、おにいさんは今、この男囚のことを殺さなかった。おにいさんは、"いい人"だった」

ヴェストの眉間の皺が深くなる。「ちょっと待てよ…僕は"いい人"なんかじゃあないぜ」彼は立ち上がると、男囚を担ぎ上げる。これ以上、この少年に関わるつもりがなかったからだった。彼はそこまでお人好しではないし、そろそろこの"脱獄未遂"の未遂犯が見つからないことには、警戒レベルが更に上げられかねないし、ちょうどヴェスト自信の休憩時間も終わる頃だった。

「君を"見すごす"ことはしてやろう。だけど間違っても"君の母親"の"仇討ち"を手伝ったりはしない。僕は面倒事が嫌いだ」
「……それで構わないよ。でもね、おにいさん」

ドアを開こうと手にかけて、ヴェストは一度だけエンポリオを振り返った。彼はもう帽子を被って、そしてリュックサックを背負っていた。ずいぶんとものわかりのいい子供だと思う。子供というものは、どうしようもなく甘ったれで、それでいて押し付けがましい存在だと思っていたのは、どうやら間違いだったかもしれないとヴェストは脳内で感心した。

「あいつはどこに隠れているかわからないし、おにいさんも、ひょっとしたらもう既に、狙われているかもしれない……ぼくのお母さんみたいに、心をドロドロに溶かされて盗られてしまわないように……"ホワイトスネイク"に、気をつけて」

ぼくはそれだけ、忠告しに来たかったんだ。エンポリオは眉尻を下げて微笑んでいた。





隣に腰掛けた神父はそっと目を閉じて、まるで祈っているかのような姿勢だった。
聖職者というものは酷く"安定"していて、それでいて"空虚"からもあらゆる"恐怖"からも無縁な存在であるように思われる。
まるで精神安定剤のようなものだ。
ヴェストは信仰というものを、そう評価する。
主という絶対の存在に、自分自身を委ねては、そして信仰のもとに己を"満たす"ことのできる存在だと。
それがヴェストにはできなかった。どうにも心の底から信仰を満たすことができない、ほんの僅かの懐疑心と猜疑心は彼の信仰をひどく空虚なものにした。
礼拝堂で、プッチはかつてヴェストの懺悔に近い独白を聞いたことがある。彼が主を見上げる視線はどこまでも濁っていて、そして空虚だった。

「僕のこの空虚を満たしてくれるものなんてなかった。僕自身も、僕を満たすことなんてできなかった」

どこか諦めたような、それでいて切望するような熱を孕んだその口調を、プッチは今でも鮮明に憶い出すことができる。




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