殺人魚 | ナノ

閉じられた世界だった。
真夜中というものは、静かで、不気味で、湖の底を思わせるような暗さを持ち併せている。充ち満ちた空間を人魚とともに泳ぎ回っているゴールド・フィッシュたちは依然、溺れることを知らない。浮かぶことも沈むことも流れることも知らない、どこまでも満ち足りた世界に、ヴェストは一人腰掛けていた。窓から降り注ぐ月の明かりに照らさせて、朧を反射しながら泳ぐゴールド・フィッシュの影が美しい、ヴェストだけが明瞭な世界、彼だけが溺れることを知らない世界。ヴェストはそんな世界のことが何よりも嫌いで、何よりも焦がれてやまなかった。
グランド・キャニオンの渓谷よりも、いっそマリアナ海溝よりも深いため息が大きなあぶくを作って、銀色の球体となって浮かび上がる。彼のスタンドはまるで愛しいものを抱くかのようにそれを飲み込んだ。キャッチボールのできない、融通の利かないこの能力は、いささか自分に優しすぎるところがあって、それが気に入らない。

(僕は溺れたいんだってのに)

この人魚はそれを赦さない。せっかく邪魔者のいなくなった肺を満たそうとおもいきり吸い込んだ筈の淡水は、器官を伝う前にあぶくになって、彼の生命維持器官を空虚にした。
やがて彼の世界は乾いてしまって、

そして恐怖が訪れる。





「どっちだと思う?」

その声に、ジョンガリが首だけ振り返る。彼はまるで既にヴェストがそこに居ることを最初から知っていたかのような素振りで、いつだって、ひとかけらも驚くような表情を見せない。それは今回も例外ではなく、いつものように薄く口元に笑顔を纏ってみせた。もともとの仏頂面のような顔とほとんど変わらなかったかもしれない、それでもヴェストにはなんとなく分かっていた。彼は微笑んでいる。自分が声をかけたことを喜ぶのが半分と、何かに半分。その何かが何なのかは知らないが、彼が笑顔を見せること自体、稀なことであるとは知っているから、悪い気はしない。

「なんの話だ?」
「ピッチャーだよ、アイツのキメ球、今日はどっちだと思う?」

ヴェストはいつものとおり、勧められた向かい側の椅子に腰掛けると、窓枠に肘をついて言った。カルフォルニアの刑務所は一晩あたり82ドルでアップグレード出来て、より快適な囚人生活を享受できると聞いたことがある。公になってるというのもどうかと思うが、どこの刑務所だってきっと似たようなものなのだろう。この、マイアミの水族館だって、テレビを部屋に持ち込むことのできる特権を買ったやつだっているし、2人部屋が嫌で自分の部屋のもう1人分のスペースを買ったやつだっている。金さえあればそれに見合った権利が伴うのがこの水族館に成り立つ"社会"の"掟"だった。
それと似たような経緯をくだったりそうでなかったり、多少の"諸事情"はあったものの、ジョンガリにこの部屋を提供したのはヴェストである。この房には珍しく窓があって、風通しがいいことも、夏の間は特に、ちょっとした買収の応酬があるくらいに人気である理由の一つだ。窓からは運動場が見えるし、景色も悪くない。海だって見える。刑罰棟が見えるのだけが嫌な気分にさせられるただ一つの要因だろうか。今日も空は快晴で、だから、ちょうどヴェストが腰掛けているのは、自由が手に届く所にあるような錯覚を抱ける。いわば特別席だった。特別席とその相席のちょうど目下。ヴェストが投げやりに指摘したのはベースボールに勤しむ囚人のことであった。最近話題になっていた、賭博でお縄になった地元の野球チームのプロのピッチャー、彼には二つの"キメ球"がある。

「知らないのか。ストレートと、フォークの、どっちか。その日の投球練習で、どっちか調子のいい方を決めるんだ」
「……なるほど、それなら、今日はフォークだろう」

しれっと答えたジョンガリに、ヴェストは頬杖をついて面白くなさそうに鼻を鳴らす「アンタ、目、見えないんじゃあなかったっけ、僕はそう聞いてるんだけれど」目を細めて、いつもの決まった文句が口から飛び出た。ジョンガリは依然、窓の外を眺める姿勢のまま、口を同じように動かした。

「何度訊いたって、言うことは同じだ……「俺には、俺の世界が見えている」」
「…ああ知ってるさ、アンタはいつだって同じことしか言わない」

決まったように、決まった作業をする、まったくオペレーターの対応と同じだ。コンピュータのヘルプ・ウィンドウみたいに、決まった応答しか返さない。手順や情報を並べ立てるだけで、いつだって肝心なことは、何一つ教えてはくれない。ヴェストはやれやれと言わんばかりに、少しおおげさなため息をついてみた。ついてみたところで、何も変わらない。それがここで、ジョンガリと過ごす、いつもの時間だった。ジョンガリはもうすっかり慣れたような様子で、ヴェストを気に留めることもない。それがなんとなく、居心地がいいと思う。何故だろう、あまり深く考えたいとは思わなかった。
ぼんやりとした沈黙、ジョンガリが頭を上げて、噛み合うことのない視線が交差する。ゆっくりと唇が動く、なにか秘密を口にするときのような動作だとヴェストは思って、それでも何も見ていないふりをした。

「どうして俺に構う?」
「どうしてだろう、僕は考えたこともなかった。だって「僕は僕の嗜好で生きてる」…そう、それ」

とたんに愉快な気分になって、ヴェストは喉の奥でくつくつと笑い声を起てる。「君はまったく、面白くもないのに、よくもまあそうして笑えるもんだな」ジョンガリが言った。

「まあ、それは。人間だからね」

答えたヴェストは真顔だった。ため息を吐きながら、ヴェストは頬杖をついて空を眺める。ああ、コーヒーでもあればいいのに。こんなに澄んだ空が見えるんだ、シアトルのカッフェで、テラスで、カップになみなみ淹れたコーヒーを飲みながらだったら、こうも陰惨な気分も晴れるだろうに。ありもしない幻想を抱く。まるで囚人のようだと思った。考えてみたら、きっと監守だって、囚人となにもかわらない。決められた時間に決められた業務をこなすだけだ。ひょっとしたら、囚人の方が自由かもしれない。彼らには決められた制服もないし、決められた人間関係も制約も、ひょっとしたら、檻の中の世界を"世界"としてしまうのであれば、ひどく自由なのかもしれない。監守を買収するのも難しいことではないのだから、彼らの世界は、いくらでも自由にできる。それに比べて、と、ヴェストは自分の世界を顧みる。まあ、それほど、悪いものでもないけれど。

「笑っていないと、不便で仕方ないんだ」

ぽつりと、愚痴でも零すかのようにヴェストは呟いた。彼はひどくリラックスしているらしい。最初に出会った時のあの"ぶれ"を、感じさせることはずいぶんと少なくなったように思う。ここは彼らを監視するものがなにもない唯一の独房だったから、ジョンガリとヴェストはどこまでも自由な囚人と監守だった。吹き込んできた風に僅かに目を細める。彼は風が好きらしい、ヴェストはそっと脳裏に刻んだ。
ブーツを二人の間に据えられたキャビネットの上に持ち上げると、ジョンガリはさすがに顔をしかめた。潔癖なのかと思いきやそうではなく、ただ一言「行儀が悪いな」と呟いた。それがおかしくて、ヴェストは今度こそ笑った。





"満ちていることはすなわち幸福であり、幸福とはすなわち満ちている状態なのである"と、ベル・ヴェストは長い間信じてやまなかったし、それは27年間という四半世紀と少しの時間のなかで全く変わることのない彼の信念に近い執着であった。満ち満ちた水槽の底を泳ぎ回るゴールド・フィッシュが羨ましかったのかもしれない、と、たまに思うことがある。水族館は初めて連れて行かれた時から、彼にとってこの世でもっとも美しい場所であり、特別な場所でありつづけた。
だから名前だけ水族館を冠したこの場所を、自分の職場に選んだのかもしれない。ずいぶんとまあ安直な理由だと、笑ってしまいそうだ。それほどまでに、この中はいつだってすっからかんで、どうにも水槽のように"満ち"た、美しい姿とはかけ離れている。生きることに満たされていない囚人が詰め込まれただけの、地球でもっとも"くだらない"職場のひとつなのだろうとは、自覚している。この水族館に属する者は皆誰だって、全く空虚な時間をここで過ごすばかりで、それは直接、ヴェストを取り巻いてやまない恐怖となって押し寄せる。いっそ気が狂うかと思うこともあった。
それでもここにヴェストが身を置いているのには、ちょっとした理由がある。そのちょっとした理由、というのは、彼にとっても誰にとっても、きっと、"ごく稀"な話であることに代わりはない。この水族館の"隙"には、ヴェストをここに縛り付けてやまない魅力があった。そういった稀に見つかる"隙"を眺めているだけで、時折、体の内側から震え上がるほどの熱を感じることがあったのである。その甘く痺れるような熱はヴェストの心にある種の幸福をもたらした。ヴェストには、隙を、"満たす"ことができた。満たされて幸福に酔っている、その様子を眺めることができる"だけ"でも、ヴェストの楽しみとするには十分だった。

ヴェストはぷかぷかと力なく浮かぶことも沈むことも出来ずただこの空間を漂うそれを眺めながら少し大げさに息を吸ってみた。喉を伝う感覚はあれども、肺に落ち着くのはやはり何の変哲もない空気でしかなくて、窒素と酸素、それから微量の二酸化炭素とその他諸々、用具倉庫のそれにふさわしい、埃っぽくて少しかびたような臭いが鼻を通り抜けてあぶくになった。

身を翻そうと上体をよじれば、両肩に感じた水圧で脳内の認識と若干のタイムラグが生じる、ここは正真正銘、水中だった。この部屋は満たされて、満たされたから、彼女は死んだ。

「感謝しろ、アンタの死因は、幸福にも、満ち満ちていたんだ」

ヴェストの言葉はぽこぽこと空気の泡になって、やがてどこかへと消えてしまった。シャボンが割れるよりも早く、そしてさりげなく消えた言霊は、彼女の耳に届くことはない。
踵を返すと、コツリとブーツが床を叩く音が鳴った。

「満たされていたはずなのに、なぁ」

こんなにも、冷たい。





×