殺人魚 | ナノ

浅い眠りから醒めて、ヴェストは一人、深海を思わせるような、ほとんど黒に近いダークブルーのシーツの上で大きな伸びをする。デジタル時計は陽が昇る寸前の時刻を表示している、いつも通りの時間、焦ることもない。掛かっていたシーツを脚で行儀悪く除けては、ホットコーヒーを淹れようとのんびりした動作で寝台を後にした。
朝一番の日課は使い古したコーヒーメーカに挽かれたコーヒーパウダーを突っ込んでスイッチを入れること、それから水槽の中にいる小さなゴールド・フィッシュたちに食事を与えることだ。かつてエレメンタリーからハイスクールまで同級生だった彼女がよこした「アナタどうせ独り身なんだから、何の楽しみもないと人生が廃るわよ」という指摘に従って"ペットを飼うこと"を趣味にしてみたものの、彼女には何故か呆れられたものだ。「ペットっていうからには、犬とか猫とか、うさぎとか、ふつう、ほ乳類をチョイスすると思ったの」というのが彼女の言い分だったが、そもそも彼の職業柄、そういった犬猫のようなやかましくて、世話の焼けるペットを飼育することは到底困難だし、寂しくて死ぬような兎はもってのほかで、それを言ったら「どうしてそう、ゴールド・フィッシュのような、地味なチョイスなの。もっとエンゼルフィッシュだとかアネクテンスだとか、アロワナだとか、そういうチョイスはなかったの?」というような、どうしようもない応酬になったものである。ヴェストはゴールド・フィッシュを気に入っている。エンゼルフィッシュのような、二等辺三角形になり損ねたような魚のどこがいいのか、アネクテンスのような食い過ぎる古代魚のどこがいいのか、アロワナのような獰猛な魚のどこがいいのか、ヴェストにはまったく理解しかねたし、そもそも彼女のアドバイスを真に受ける必要などなかったのかもしれない。けれど結果として、あのアドバイスを受け入れる必要もなかったのだと気づいた頃には既に、ヴェストはこのゴールド・フィッシュたちをとても気に入っていたから、イーヴンといったところか。とにかく、彼女のいい分とヴェストの嗜好は噛み合なかったのだった。透き通った水槽の中でバブルがはじける。
一番大きく柔らかな尾びれを持った、文字通り黄金色の丸々太った彼女の名前がアンドレア、白と赤色の斑模様が目に鮮やかな、『リュウキン』という由緒正しいジャパン生まれの品種の彼がパット、黒々として目玉が飛び出た奇抜なカタチをして、顔つきが室内犬のパグにちょっぴり似ているのがジェイソン。三匹は共食いすることもなく優雅に水槽の中を心地良さそうに漂っている。彼らとの付き合いはもう長い。ゴールド・フィッシュは、思っていたよりもずっと長生きだ。
ヴェストは小瓶の中に半分ほど残っていた金魚の餌をふたつまみほど水面に散らす。蒔かれた餌が沈まないうちに、彼らはせわしなくぱくぱくと水面に口づけはじめて、それからヴェストの後ろで、コーヒーメーカが蒸汽を吹き出す景気のいい音が聞こえた。
戸棚の上に落ち着いていた赤色のマグカップに手を伸ばす、カチリと、首から下げたドックタグが踊って、その手を思わず引っ込めた。胸元に掌を、冷たい金属の感触を感じながら、肺の奥底を思って呼吸をひとつ。
口から溢れた息はため息に似ていた。
瞼の裏側で、彼女が微笑む。
僕は彼女を確かに愛していたんだ。ドックタグに刻まれた名前、マンゴ・ストロベリーフィールド。まったく熟れた果実のように瑞々しい名前を持った彼女はもう、この世にはいない。





ぼけっとしていたせいだ。何かに躓いて、ヴェストはあやうくひっくり返るところであった。転倒すまいと行き場を失くした右足を、そのまま前に突き出す形で踏みとどまる。結果、不格好な形で、中途半端に前のめりに静止して、まるでクラウチングスタートに出る前の陸上選手のような姿になった。背後から笑い声が上がらないから、ラッキーだったかもしれない。別段人に笑われることを特に気にする様な性格ではないけれど、やはり笑い者にされるのは面白くない。それに囚人につけいられる様な隙を見せるのは嫌いだ。たかだか転びかけたことが隙というのは少々大げさだったかもしれないが、つけいられるような隙とやらに直結しかねないような、とにかく、そういう、ほころびになる可能性があるから、嘗められるのはあまり感心出来たことではない。幸いその場に居たのは、髪の長い、頬に奇抜な刺青の施された、切れ目長の男だけで、その左手首の細いリストバンドは彼を囚人であることを主張していた。ヴェストがリスト番号の番号を頭に入れていると、彼はヴェストに手を差し伸べて、薄く色づいた唇を動かした。

「すまなかった」

噛み合わない視線に違和感を感じて、直感的にヴェストは彼の目が不自由であることを察する。そもそも躓いた原因が彼の杖であったようで、蹴飛ばしてしまったということに気づいては、さすがに罪悪感が沸かないほど不躾な人間であるつもりはない。

「いや、僕の方こそ悪かった」

そう口にしたヴェストの眉間には依然皺が寄っていたが、男の眉尻はすまなそうに八の字を描いていた。いやに正確に差し伸べられていた掌に対して少々驚いたものの、手を取る必要はない。立ち上がるのと同時に、蹴飛ばしてしまった杖を拾って、眉間の皺が更に深くなった。蹴飛ばした時には気づかなかったが、それは見かけに反してずっしりと重く、杖とするには不便ではないのかと思うほどだ。まるで中身のぎっしり詰まった鉄パイプか何かのようだ。行き場を失くした囚人の掌に杖を宛ててヴェストは口を開く。

「重すぎないか、ソレ」
「長く愛用してるものでね、これがないと、安心して夜も眠れない」

口の端が曲がって、どうやらこの男は笑っているらしい。暇を貰った腕を組む。少し虚勢を張るようにして、低めの声で言った。

「蹴飛ばしてしまってすまなかった、だけど、僕の進行方向にこれを突き出してたアンタもアンタだぜ。気をつけてくれよ」
「ああ、もちろんだ」

囚人は恭しく会釈してみせると、「はて、俺の房はどっちだったか」なぞとぼけたことを言ってみせる。ヴェストは再び大きく顔をしかめてみせた。

「あっちから来ただろ、ってことは、あっちで、でも、アンタは右に行くつもりで杖を出したから僕の足にひっかかったんだ。アンタが行きたいのは、礼拝堂の方。合ってる?」
「ああそうだ」

深く頷いて、そのせいで囚人の長い髪がさらりと肩を流れる。杖が床に落ちついて、ごつんと重そうな音を起てた。背筋がすっと伸びて、そこらの看守よりもずっとシマッた体つきのせいだろうか、ヴェストよりも身長が高いように感じられた。まるで軍人のようだと思ってから、本当に軍人だったのかもしれないと頬を掻いた。切れ長の目から覘く眸は濁っていて、ヴェストのずっと後方をじっと見つめているようで、どことなく居心地がわるい。

「神父に話を聞いてもらいたくてね」
「アンタ…元、プロテスタント?」
「どうしてわかった?…代々その系譜でね」
「神父、って、呼び捨てにしただろ?普通は"神父サマ"って呼ぶもんだぜ」
「それは…育ちの悪さが露呈したな」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃあない、はは……すまない」
「……何が面白い」
「ごめん、ごめん。気を悪くするなよ、何も面白くはないさ」

そういうふりなんだ。ヴェストはため息を吐くのと同じような調子で言った。

「愛想笑いってやつだ。神様とか、そういう話になると、つい」
「……神を、信じているのか?」
「信じてるよ」

なんて空っぽな言葉だろう。
喉まで迫り上がった悲鳴のような恐怖を呑み込んで、右手は組んだ腕を力の限り握り締めていた。男は静かに頷くと、ヴェスト目線のそのさきを見つめたまま、静かに口を開く。

「模範解答だ、それでいい。恐れるほどの嘘じゃあない」

虚をつかれた気分になって、そして自分の内面を見透かされたようなその科白に、ヴェストは大きく目を見開く。この男が何を言っているのかわからなかった。「恐れるって、何を?どうして」少しうわずった声を"みっともない"と思う暇さえない。背中の毛穴が泡立ち、冷や汗がどっと吹き出した。囚人は口の端を釣り上げて、細い目を更に細める。笑っている。どういうつもりの笑顔か、ヴェストは純粋に戸惑う。それは嘲笑でも、冷笑でも、皮肉でもない、それは自然な笑顔だった。まるで、福音を授けるような。

「意味が分からない、俺はべつに、なにも、こわがっちゃあいない」
「なに、特に意味なんてないさ」

囚人は杖を持ち上げた。どうやら先へ進みたいらしい。
(おいおい、これで話は終わりってわけじゃあないだろうな?)
ヴェストは落ち着かない心臓を押し込めて、口の中にいつの間にか溜まっていた唾を飲み下す。右隣をすれ違った男を目で追って、とっさに口を開いた。

「……アンタこそ、神を、信じてるって?」
「さてね……どうだろう、だが………"引力"は、信じている」

ふうん。ヴェストは肩を落として、男はそのまま右に曲がった。誰もいなくなった廊下で一人、目を細めて、薄く笑った。心臓は鎮静剤でも打たれたかのように穏やかで、冷や汗も収まっている。押し寄せる恐怖もない。笑ったのはどうしてだろうと思って、ほどけた拳を見つめて、そして自分があの囚人を嫌いだと思っていないことに気がついた。

「MA-58002」

そしてベル・ヴェストは、ジョンガリ・Aという男を知る。





キスをしたのは、きっと片手に収まる回数だっただろう。それでも彼女はとても満足そうに微笑んだ。

「知ってた?相性がいいのよ、私たち」

きっとそうなんだろうとは、自分でも自覚していた。それほどまでにぴったりと、まるで肌に吸い付く質のいい革製品のように心地よい関係だったから。
けれどそれは結局、錯覚だった。

いったい何回目のキスだっただろうか、彼女はモルヒネでも大量接種したかのようにその行為に夢中になって、そのうちまるで気がふれた犬だか猫だかうさぎのように、まるでオルガスムスを迎えたかのように。ヴェストの名を叫んでは、噎せ返るように息絶えた。
その一部始終を彼女の傍らで、なにも出来ずにただ呆然としていたからには、もちろん殺人の疑いもかけられた。しかしながら。彼女の体内からは直接の殺害の原因となるような毒物も何も検出されず、死因は心臓発作で、もともと彼女の持っていたアレルギーの拒絶反応だった、ということに落ちついてしまって、ヴェストが逮捕されるという事態には至らなかった。
それでも、ヴェストの心は、なによりも、深く落ち込んでいた。

「僕たちは上手く行っていたはずなのに」

―――僕は彼女に溺れることができなかった。

彼女のその"溺れた"ような死に様が、彼が焦がれてやまないその"幸福な死"が、ヴェストはただひたすらに、羨ましかった。
以来ヴェストの心には、"空虚"という名の怪物が住み着いている。




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