殺人魚 | ナノ

「ったくよォ〜〜〜ああいう、社会のカスどもが、どうにも気に障って仕方ないね、俺ァ!」

彼はまるで"囚人"という"存在そのもの"に苛立っているかのように、よくこうして喚き散らすのが常だった。何が彼をそうさせるのかはわからない。ただ、見回りの間に飛んでくる罵声やら何やら、そういうささいなことでストレスを溜めているのかもしれなかったし、それとも安い値段で買収をもちかけてくる囚人達に辟易していたのかもしれなかった。いずれにせよいちいち気にしてたらキリがない、と、いつものように、ヴェストは同僚の愚痴を右から左に受け流すことに専念する。早くジャズの続きを聞きたいと思う程度には心底どうでもいい。元マイアミの税関勤務の人間が他人の罪に対してはどうにも潔癖で、ここの人間をいちいち罵るくらいにストレスを溜めやすいらしい、なんてことに、興味などは微塵も抱いてはいなかった。いよいよ耐えかねて、自分のロッカーをわざわざ音を起てて閉じる。少し驚いたような顔でこちらを見たウエストウッドは、やはりいつも通りのブサイクだった。
二秒かそこらの空白が生まれて、ヴェストは極めて静かに口を開く。喉を通る言葉がツッかえそうになって、それが妙な間を作った。その間ウエストウッドはヴェストの顔色を伺うようにして、彼の死にかかった淡い碧眼を垣間見ていたが、何を考えているのかはいつも通りわからなかった。ベル・ヴェストはそういう男だ。良く言えば、聞き上手だがどこかミステリアスな雰囲気を纏った男で、これを悪く言うなら、だんまりネクラなサイコ野郎とでも言おうか。そんな彼の開かれた口からまず漏れたのはため息で、それからようやく言葉が転がり落ちた。

「…お前、やっぱここの勤務向いてないんじゃあないの」
「そりゃあ、お前、"向いてない"つってもよォ〜〜、仕事なんだ。仕方ねえだろう」
「もとは税関にいたんだろ……そっちのほうがマシだった、とか」
「ああ、そうかもな」

ぶっきらぼうな返答、苦虫を噛み潰したような顔でウエストウッドは頭を掻きむしる。どうやら彼にとって芳しくない話題だったらしい。前の職場にいざこざがあって、この水族館勤務になったなんて歪つな経歴はさして珍しい例でもなかったから、ヴェストは適当な相槌で流してカップに注がれたコーヒーを啜る。管理室で飲んでいたものの残りだった。見やれば、亀よりも鈍い彼の身支度だったが七割は既に済んでいる筈だと言うのに、ウエストウッドはもたもたとしている。切れた会話に再び口を開いたから、まだ話したいことがあったらしい。つくづく、彼はおしゃべりだ。その大半に、中身はないけれど。

「そういやお前、リキールって奴知ってるか?あの、俺と同じ、懲罰房勤務のやつ」
「ああ、あの、クルックルに巻いてる奴」
「そうだそいつだ、あいつに、5ドル返してねぇの、口うるさくてたまらん」
「へえ、そりゃあ……御愁傷様」
「全くケチケチしやがってよ、たったの5ドルだぜ?懐の狭い、カスみてえな野郎だ」

どうやら欲しいのは免罪符だったようだ。「なんだそいつ、心が狭いな、お前は悪くないよ」という言葉が欲しいんだろう。その通りに投げかけてやると、「だよな〜〜〜〜」と、とことん間延びした安堵の声が帰ってきた。身支度のスピードが三割ほど上がる。安物の腕時計を外して、帽子を被った。単純な男だ。僕の免罪符なんてもらったって、なんの許しにもならないってのにだ。ばかばかしいにもほどがある。そういうのは礼拝堂にいってやるもんだ、と、思ったところで、ふと。ヴェストの口元が緩む。

「……恋人でも作ったらいいんじゃあないかな、そいつ」
「はああ?」

きょとんとしたウエストウッドの顔がいつにもましてブサイクで、ヴェストは少し声を出して笑った。彼はもうすっかり着替えを済ませて、あとは出て行くだけだというのに、動かない。どうやら本気で呆れられているようだ。ヴェストは付け足すようにして言葉を続けた。

「恋人でも作ってさ、心に余裕ができたら、そうもカツカツするもんじゃあなくなるって」
「……俺がいうのもナンだけどよぉ、この水族館の中で、お前ほど頭の浮かれた看守はいねえぜ」
「はは。浮かぶだけ空っぽなんだよ、中身が…」

最後の言葉がウエストウッドに届いたかはわからない。ヴェストの手製の免罪符を持って満足した彼は、さっさと懲罰房へと行ってしまった。
片耳にイヤホンを突っ込んで、どうせ行くのは仮眠室だ。少しくらい眠れる時間が減ったところで痛くも痒くもない。
閉じられたロッカールームに一人、ヴェストは静かに目を閉じる。

瞼の向こう、ざぶん、と、波立つ様な音が聞こえた。





ベル・ヴェストがG.D.st重警備刑務所に勤務すること、かれこれ五年になる。もう今となってはベテランの部類だ。男子監に配属されてから数ヶ月でコントロール管理室に異動になってからは、脱走を企てる囚人を追いかけ回す作業と、捕らえては房に押し込める作業との統括と、それに伴う"責任"を負うようになったものの、いままでの見回りやら何やらの回数がぐんと減ったからずいぶんと楽な仕事になった。疑似社会を形成することを刑務所の理念として掲げているこの水族館では少なからず自由と権利が認められていることもあって、脱走を試みるような囚人は少なかったし、いるとすれば面会室で近しいものに会った後の挙動不審な奴らだろうか。モニターの中から見ていてても明らかだったし、コントロール室で監視している限りそういう奴を見つけるのも難しいことではない。兆候を発見次第、それらをこうして、事前に隔離するのもヴェストの役割の一つだ。
ヴェストの背後を付いて歩く囚人MA-20311は終始黙りこくって、これから自分がどうなるのかというのをただひたすらそれだけ考えているようで、度々ヴェストの顔色を伺っては目が合う度にひい、と小さく声を上げるばかりだった。そういえば何も知らせちゃあいなかったかとヴェストは首を傾げる。脱走が困難である男子監の南側の、運動場に面した房に移動にしただけで、別に捌いたり痛めつけたりするようなこともない。怯える必要はないが、ソレを教える義理もないので、やはりヴェストは終始黙っていることにした。

「MA-20311、ここがお前の新しい房だ。前回同様、好きに使うのは自由だが、備品を壊すのはよせよ。修理が面倒だ」

囚人はぽかんとした表情でヴェストの言葉に頷いただけだった。
ヴェストは扉に正常にロックが下りたのを確認すると、踵を返す。数歩歩かないうちに、通りがかりの房から声がかかる。彼は自分に囚人の房の移動権限があることをどうやら知っているらしく、買収を持ちかけてきた。それに首を振って断わりを入れると今度は罵声が飛んでくる。つくづく自由な奴だった。
犯罪者を社会から隔離し、彼らのアタマの中ですっかりユルまってしまった"社会秩序"や"道徳的規範"を定型通りの歯車に叩き上げて、社会で再利用出来るようにするための機関である、はず、の刑務所。そういう社会的通念だが、この石造りの海の中で構築されて練り上げられたここ独自の秩序に慣れきってしまった連中にはどうにも、この人でなしの国がお似合いらしい。ここの水が合う人間なんて、だいたいは頭のおかしい連中か、常識の皮を被った頭のおかしい連中しかここにはいないんだ、と、いつだか同僚が零していたが、あいつもきっと例に漏れない男だったのだろう。彼はたしかその数週間後、あの図体に似合わない小さなロッカーに、丁寧に服のボタンまでキチンと解体されて詰め込まれていた。犯人はまだ見つかっていない。翌日の新聞の片隅の記事にも乗らなかった、それくらいちっぽけで、いずれ"更正された"彼らを送り出さなければならない"人間の国"とやらにとってはどうでもいいことだったのだろう。ヴェストにとっても正直のところ、どうでもいいことだった。もっとも、それで彼が中身の詰まったただの人間であったことは証明されていたし、ただの元同僚にあまり興味はない。ただ骨の髄から漏れる腐ったような臭いが強烈だったから、ヴェストの脳裏にこべりついていただけの話。

「ヘイ看守、今月も一人、囚人が溺れたそうだな」
「なんだソレ」

ヴェストは仏頂面からほんの少しばかり頬を破綻させて、鉄格子の中を見やった。互いに顔を見知った囚人が、硬そうなベッドに腰掛けて彼を見やっては「隣の隣の独房からいなくなったじゃねえか、アンタの管轄外だったか?」と返す。「いや、知らないな。このフロアーは……知ってるだろ?月曜と水曜以外に見回りにくるヤツ。あいつが管轄なんだ。とはいえ、お前が真摯に近所付き合いするタイプとは知らなかった」ミント味のキャンディを包み紙からはがして、口に放り込みながら看守は答えた。男は看守の物言いを気に入ったのか、豪快にゲラゲラと笑った。とくに深い意味のない、ただのうわさ話だったらしく、彼は饒舌に居なくなった男の顛末を語りはじめる。それを右から左に受け流しながら、確かこの囚人は確か、傷害罪で刑期は五年、薬物もやってたような気がする。出所まであと折り返し二年、面会にきた人間はいなかったかと、檻の傍に差し込まれたプレートに刻まれた囚人番号を眺めながら脳内を反芻した。左足が悪いからッて理由でベースボールでベンチ入り出来ないだけ、気の毒なやつかもしれない。少しだけ同情の念を持ちつつ、ヴェストは一通り話を聞いてやった。彼はそうやって、囚人を虫けらのように扱う他の看守達とは少々違ったからには、囚人達の間ではそれなりに評判の看守である。だからといって「いいやつ」とも「わるいやつ」とも評されたことはない。買収されたりされなかったり、しやすいともし辛いとも言われる事はない。気まぐれなヤツだとは言われた事はある。囚人のバックを掘る趣味もないし、バックを掘られる趣味もないから、至って正常。房の移動権限を持っている分、意中の囚人がいるゲイの囚人にモテるのが難点だったが、ヴェストは時々、健全な看守の規範かもしれないと、自負することもあった。
囚人の話はファンタジィに満ちた三流サスペンスだった。密室のバスタブ(もっとも、この水族館に"バスタブ"なんて存在しない、あるのは簡素な温水シャワーだけだ)で、溺死した男の話。死体はきっと、ワニに食われっちまったんだろう、とのことだった。「犯人は、最初っから農場で、被害者にワニをけしかければよかったんじゃあないのか?」看守が感想を述べると、囚人は「ソレじゃあ、面白くない」と顔をしかめる。

「アンタ、意外にセンスないんだな」

余計なお世話だ。ベル・ヴェストは顔をもとの仏頂面に戻して背を向けた。溺れさせるというのなら、バスタブよりも洗面器のほうがよっぽど現実的だし、それに彼の案だと、ワニのいる沼場まで運ぶのが面倒だ。それに、ワニ好きの所長が黙っちゃいないだろう。適当にワニに食わせて、彼らの愛しのワニ達が腹でも壊したらば。所長や飼育員の機嫌ももれなくぶち壊しだ。小説家になるにはほど遠いな、と、奥歯はミント・キャンディを噛み砕く、口の中には人工的な爽快感が広がった。





ベル・ヴェストのその能力は、ギフト──神から授かった贈り物──というにはあまりにも残酷で、あまりにも彼の本懐を根底から覆す。逞しい男性の上半身に魚のような下半身、それは彼自身の瞳によく似た淡い青色をしていて、透き通るように美しく、そしてどこかグロテスクだ。形こそ人魚に似ていたけれども、人魚というにはあまりにも醜かった。

「"ローリンイン・ジ・ディープ"」

ベル・ヴェストはその人魚のような半身をそう呼んだ。

空虚という深淵に喘ぐ、彼の生き様にそっくりだった。






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