殺人魚 | ナノ

どこまでも続く海岸線のその先の、空と海が溶けあう光景を見つめていた。波は穏やかだ、少し前まではサーフィンだってできたかもしれない。もっとも刑務所の横でサーフィンなんてだれもしようとは思わないだろうけれど。もともと海を眺めているのが好きだった。物心ついたころに"全ての生き物は海からやってきた"と聞かされて以来、海は自分を虜にしてきたように思う。それに自分の瞳の色のせいもあって、海が連想される青色もろとも好きだった。

「海ッていいよなぁ、俺は特に、あの色が好きなんだ。なあ、そう思わないか?」

だからそう話しかけてきた、長髪の軍人のような格好をした男とはやけに馬があった。予定もなかった休日だというのに、いつの間にかこれからベースボールの試合を観に行くことになっていたから、世の中面白いこともあったものである。
スタジアムまでは、グリーン・ドルフィン・ストリート経由で行くのが一番近い経路である。だからこうして、いつもは乗ることのない、シートのカタくて窮屈なバスに揺られていた。隣のシートに腰掛けた軍人は、終始機嫌が良さそうだった。

「コーヒーが飲みたいな、どっかのチェーン店のでもいい。とびっきり苦くて、濃いやつ」
「さっき飲んでたじゃあねーか、それでよく胃を痛めないもんだ」
「一日に四杯は欠かさず飲んでる」
「カフェイン摂取しすぎると死ぬらしいぜ」
「コーヒーで死ぬなら本望ってやつだろ……それと、ケーキも欲しい」
「あのベルベットケーキばっかりはよしてくれよ」
「なんだよ、注文が多いな。僕にいわせてみれば、君がさっき食ってた真っ青のストロベリーカップケーキほど、存在意義のわからないものはないぜ」
「どっちもどっちだ。味が酷いやつと、色が酷いやつ」
「色が酷いって自覚はあったんだな」
「言ったろう、俺はブルーが好きなんだ」

やれやれと少し大げさに肩をすくめては、窓の外の景色に目を向ける。
バス停の手前で止まって、立ちすくんでいた少年と目が合った。
まるで幽霊でも見たかのような視線を寄越すものだから、こちらが少々面食らう。

「知り合いか?」
「いや……」
「少年野球チームの面倒みてるとか、言ってたじゃあないか」
「それにしても、あのロゴはみたことがないよ」

他人のそら似って奴だろう。バスが発車する。少年が我に還ったように走り出したのに合わせてかバスが一度止まった。どうやら乗車してきた女が細かい紙幣を持っていなかったらしい。

「おいおい、こっちは急いでるんだぞ…早くしてくれよ」
「薄情だな」
「試合は時間通りに始まるし、チケットだってまだ買ってない」
「そういえば…今日登板するピッチャー、キメ球が二つあるって、知ってる?」
「ああ、調子がいい方をキメ球にするってやつだろ?」
「せっかくだし、賭けてみようか……フォークか、ストレートか」

少し迷うような素振りを見せてから、軍人の口は不敵に弧を描く。

「フォークだな」

運転手の気が荒かったのだろう、今度は少々強引に発車した。





エンポリオが音楽室の外で自由に出歩けるエリアは限られている。人通りが少ないのはどこか、その場所には誰が、何時頃に通るのかを把握していない限り、エンポリオはスチールのダストシュートを被ってこっそり移動するほかない。けれど目出し帽よりも口が広いせいで、覗き込まれたら一度でバレてしまうというリスクもあれば、本物のゴミを放り込まれるというアクシデントも少なくないから、エンポリオ自身もそれをあまり好まなかった。
しかし背に腹は替えられない事態が、ここ数日の間に起きすぎている、と、エンポリオは思う。全てはクージョー・ジョリーンが面会人と遭遇したことから始まった――のでは、ない。看守ベル・ヴェストの様子がおかしかった、あの使い古したグローブを受け取ったその時から――いや、それよりもずっと前から、この水族館では"死ぬよりも恐ろしいこと"が、ずっと起こっていた。それがちょっぴり"加速"したにすぎない。あの日、看守二人と囚人が一人、そして面会人が(もっとも徐倫はそれを否定しているが)死んでしまった。これまでも姿を消した囚人や看守は少なからずいた、だが今回は規模があまりにも大きすぎる。類を見ない、異例の事態であった。
きっとヴェスト看守は何かに気付いてしまったのだ。それを確かに感じ取った、だからエンポリオは徐倫に忠告を試みた。

(結果として、それは無駄になってしまったけれど…お兄さんは、いまだって、既に"そうなるであろうことがわかっていた"ような顔をしている)

だから今日こそ問い出さなくてはいけない。そう心に決めて、エンポリオはあの日以来口をきいてくれなくなったヴェストに話しかける機会をうかがっていた。ヴェストは通常の勤務通り、モニタールームに籠ってばかりいる。端から見れば、勤務態度が真面目に戻ったってところだろう。なんせ彼が懇意にしていた囚人は死んでしまった。彼が事件直後、囚人の亡骸の側に立っていたという証言は、既にエンポリオの耳にも届いている。懇意にしていたという割には、悲しそうな素振りは見られなかった。
空条徐倫を懲罰房に入れたのはヴェストの権限によるものだし、ヴェストには彼女を移す権限がある。だからエンポリオはそれを交渉してみるつもりで、そのきっかけを探し続けてきた。
ヴェストはバインダーを片手に立ち上がる。勤務時間内にモニタールームを出るのは久方ぶりのことである。エンポリオは慌ててその背を追った。

「囚人番号FE-40536……君がクージョー・ジョリーンか」
「アンタは…」

空条徐倫は訝しげに話しかけてきた看守を鉄格子の隙間から見やった。番号以外で看守に呼ばれるのは初めてのことだったからだ。看守は帽子を被っていない。第二ボタンまで開いたシャツからは三枚のドックタグがちらちらと鈍く光を反射していた。男の碧眼は澄んでいたが、生きる気力が見当たらなかった。重病人と言うには欠ける、だからといってヤクをやっているような病的な雰囲気は感じさせない。眉を潜めた徐倫が言葉を続けようとしたとき、彼の袖を見覚えのある少年が引いた。

「…エンポリオの知り合いなのね」

エンポリオはおろおろと、この人は敵じゃないというつもりなのだろう、そういう顔をして見せていたけれど、"信用しない"に越したことはない。エンポリオと共に現れたということは、彼も十中八九スタンド使いであるわけだが、その姿は見えなかったし、もとより看守はエンポリオを顧みることはしなかった。徐倫のむき出しの警戒心に気付いたのかそうでないのか、看守は小さく息を吐いてから口を開いた。

「僕の名前はベル・ヴェスト。君にサジェスチョンをするためにやってきた。君は僕を疑っているだろうから、最初に言っておこう、君を面会人に会わせるなとエンポリオに警告させたのは…この僕だ」
「あら、それは……つまり、あたしの"味方"ととっていいってことかしら?」
「さあね。ただ、少なくとも僕は君を懲罰房棟から移すつもりはないけれど」
「どっちなのよ」
「……君たちに縁のあった男に、僕も縁があったってことだ」

目を伏せた彼は酷く穏やかな顔をしていた。まるで思い出を懐かしむかのようなその表情に、徐倫は再び眉を寄せる。自分に"縁のあった男"に心当たりはないが、エンポリオは何か言い足そうに黙っているところを見ると。エンポリオと徐倫双方に"知られている"男だ。脳裏には空条承太郎が思い浮かんだが、彼に看守の知人が居るとは思えなかったし、ともすればここの他の看守か、もしくは――。

「ジョリーン、僕はね、君にとても感謝しているんだ」
「…?」
「君のおかげだ。君が彼を胎に留めた。彼は最初から溺れたまま、生まれることなく満たされて、もっとも純粋な美しい姿で死んでいった。僕はそれを――とても愛おしく思う」
「……そう」

房の冷たい壁に背を預けたまま、徐倫はその看守が微笑むのを静かに眺める。

「感謝されようがされまいが、どっちだって同じこと。あたしの知ったことじゃあない。だけど……アンタ、愛されたかったって顔してるわ」

看守が一瞬目を見張る。きっとエンポリオは気付かなかったろう。ため息に似た息を吐いて肩をすくめた。

「僕はそれが怖かったんだ」

だから徐倫、君はあの白い蛇から、林檎を受け取ってはいけないよ。

「ホワイトスネイクの正体が誰だか、僕は言うことをしない。それを言ってしまうことは、かえって君たちを不用意に危険に晒すことになる。僕には目星がついている、それはホワイトスネイクにとっても"同じこと"だ」

あとは君たちの好きにすれば良い、僕は近々、この水族館から姿を消すことだろう。





「そこに……ぃるんだろう"、ベル・ヴェスト」
「なんだ、まだ生きてたのか」
「ア"ア"…だが…ガボッ……とでも"寒い…」

既に死臭が漂っていた。血なまぐさい匂いはあまり好きではなかったし、これからも好きにはならないだろう。
抉られた首からヒューヒューと空気が漏れる。血液が脈打つのと同じようにして噴き出して、ああ、これはもう、助からない。
誰かが撃った。自害ではない。あの最後の銃声が彼を殺すのか、と思うと、それが少し残念だった。
塗れた傷口に触れる。まだ鼓動がする。あたたかい。

「みてみろよ、アンタにはこれだけたくさんのものが詰まってた」
「残ね"んだが……何も"見え"ない」
「だろうな、もっともだ。だが…こうなるかもしれないッて、覚悟はできていたんだろう?」
「も"ぢろ…ん"だ」

泣きそうな声だと思った。もはや泣くだとか、笑うだとか、そういう感情が読み取れるトーンではなかった筈だが、ヴェストにはそう思えてならなかった。
そこにあったのは無念であり、後悔ではない。悲観ではなく、憎悪でもない。
"幸福"でないのが、どこか腹立たしくも感じられた。

「なあ"」ジョンガリは瞼を閉じる。彼には必要なかったからだ。「君に最期の頼みがある、ベル・ヴェスト……君にしか、できない………見ての通り、俺はもうほとんど"感じ"ない」頬に触れた掌もその体温も、もうわからなくなってしまった。

「だから最期に――」

俺を満たしてくれないか。

"君がそれを幸福だというのなら、俺はそれを信じよう。"



――僕はこうして、人魚を殺した。






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