殺人魚 | ナノ

眠っているように見えた。
呼吸が聞こえそうな気さえした。
息を吹き返すんじゃあないかとどこかで期待していた。
もちろん、そんな筈はない。
ジョンガリ・Aは死んだのだ。



十一月二十六日、憂鬱な金曜の朝のことであった。
彼は陽が昇るよりも少し早い時間にいつも通り目を醒ます。内容は忘れしまったがとにかく夢見が悪かったことばかり覚えていて、いつもより優れない気分でコーヒーメーカに挽き豆を突っ込んでから、気休めにすこしばかり大きな欠伸をした。それからその手を瓶詰めにされた餌へと伸ばす。もう残りは少なくて、振ってみてもこころもとない音がするだけで、もう二、三回でなくなりそうだった。最近買いに行くのをサボっていたせいだ。今度の休みはいつだったかと意識をカレンダーへと飛ばしながら、部屋の隅に置かれた彼の桃源郷に視線を遣って――ああ、と、息を吐く。
十分な淡水で満たされた小さな水槽の潭に、丸々と太っていたそれらはぽっかりと浮かんでいた。
そうして思い出す。目覚める前に見ていた悪夢は、金魚が死んだ夢だったような気がした。どこかでデジャヴを感じるような奇妙な感覚に、笑ったらいいのか落胆したらいいのか判別がつかない。一方で、ヒーターが機能していなかったせいだろうと、下がりきった温度を示す水温計をつまみ上げて冷静な判断を下した。
白濁した眸が、それには生きる意志がよもや失われていることを暗示していて、余計に言いようもない気分にさせられる。長い付き合いだったと思うと同時に、最後は何事もあっけないものだなとひとりごち、掬い上げた死骸をゴミ箱に捨てた。ゴミ箱の底へ落ちたアンドレアの腹が潰れて、淡い黄色の粒が飛び出したのを見た。

気分は一向に冴えないまま、それでもデスクの雑務をあらかた済ませてモニタールームに入ったのはいつもよりも30分も早い。夜勤だった男が顔を輝かせたから、きっと彼にとってヴェストは救世主にもなりうるのだろう。囚人の昼食風景が映し出されるモニターをざっと眺めながら二杯目のコーヒーを啜る。当然のことだが、野球帽を被った少年の姿は見えない。代わりに、不器用にスプーンを操る女囚が目についた。彼女はFE-40536、クージョー・ジョリーン(CUJOH JOLINE)。十九歳の若さにして罪状はひき逃げ、殺人、死体遺棄の三拍子と重く、刑期は十五年。今日の昼、面会人が来ることになっていて、面会人の名前は、クージョー・ジョータロー(CUJOH JOTARO)。少しだけ調べてみたが、ただの日本人の海洋学者だった。
この親子に一体何があるのか、ベル・ヴェストには検討もつかない。
そもそもFE-40536が問題なのだ。彼女は既に、ヴェストの"脱獄未遂の兆候あり"の囚人のリストの中に"ギリギリのところで"入れられている。他の看守から収集された情報の限りでは、そうカテゴライズされる項目を満たしていたからだ。伝聞された情報とモニターに映されていた映像の限りでは、相部屋の囚人FE-18081との共謀も疑わしい。
しかしヴェストが観察する限り、彼女にはその兆候がみられないのが腑に落ちないところである。
そして"こんな些細な情報を買った囚人がいた"ということも、彼は既に把握していた。
FE-40536に関する情報を洗っていたところで浮上した。彼女に関する情報を持っていた看守は少なくとも五人、そのうち二人が男子監にも関与している。片方が、金に汚い男ともよく"つるんで"いる。情報の伝播はまるで蔓芋のようで、憶測と事実を張り巡らせて思考と可能性を照合させねばならないが、ヴェストにはひどく得意な作業であった。
得意であったが故に、たどり着いてしまった。
口の中のコーヒーの、酸味が強い。
ミュッチャー・ミューラーが部屋に入ってきたのに気付くのにも、少々時間を要したのはそんな精神状態であったせいもあるだろう。
彼女は今日も、ほとんどミルクしか入っていないコーヒーを片手にヴェストの隣に腰掛ける。

「顔色が優れないようだな」
「そうでしょうか」
「何か心あたりでもあるのか?」
「いいえ……ですが、あまり寝ていないのは、あるかもしれません」

ごつり、と硬質な音を起ててマグカップがデスクの上に落ちついた。中身はもう冷えきっている。時計は正午を指していた。

「医療棟に行ってきたらどうだ?ひどい顔色だぞ」
「……ではお言葉に甘えて、そうさせていただきます」

ちらりと最後に目をやった、F-2bと名付けられた監視カメラに映ったスチール製のゴミ箱。それは普段"そこにはない"ものだ。

(間違い探しは得意なんだ)

内心ひとりごちながら、管理棟を後にする。自然と足は男子監の三階へと向かっていたが、あいにく角の房は空だった。

「MA-58002なら、さっき出てきましたよ」
「…そのようだな」

どうせ医務室へ向かうついでに、少し寄ってみただけだ。言い訳とも弁明ともつかない。焦っているのかといえば、そういうわけでもない。そういえば、あのゴミ箱はまだあの面会室への通路にあるのだろうか、そろそろFE-40536は、面会人と顔を合わせる頃だろう。
医務室の前に差し掛かったその時、レベル4を知らせる警報が鳴った。

「909発生!警備レベル4!面会室外側扉に異常警報!警備レベル4!909発生!」

909――すなわち脱獄。それがどこか遠くに聞こえているような気がして、当事者意識に欠ける自分自身を笑う。

「笑わないと不便で仕方ない」

つづいて銃声が聞こえた。どうやら穏やかではないらしい。叫ぶような声も聞こえた。階段を上がれば、面会室は異様な酸の臭気で立ちこめていた。
ブーツの底が、不器用に散らばったそれらを踏みつける。もう肉片になった部下のことなど、知る由もないし、興味もない。ただ彼の脳髄は空っぽだったのかもしれないと思って、そればかりは少し可哀想に思った。

「アーメン」

十字を切るその仕草がやけに白々しくて、ヴェストは肩を落として息を吐く。凄惨な殺人現場だったが、酸に溶かされてズルズルになっていく死体よりは幾分もマシだろうとも思われた。
ここを通った看守はおそらく二人、そのうち一人は――片方を殺したのだろう。
そして、そのもう一人に、ヴェストは驚くほど冷静に、場違いなまでに穏やかに、笑いかけた。

「ハイ、ジョンガリ。元気?」

まだ硝煙の匂いが漂っていたし、床には、彼に銃口を向けた拳銃が落ちている。





「これは僕の持論なんだけれど、人間には二種類の人間がいると思うんだ。満たされている人間と、空っぽな人間。僕は断じて前者に憧れている。僕もそうでありたかった。純粋で、複雑で、そして"中身が詰まってる"。それがなによりも人間の生きる上で大切なことなんだ。空っぽな人間に存在価値なんてない、空の人間は、いうなれば、"余分"を自分の余白に割り当てて自分を"満たした"ような気になってる。例えば囚人は、囚人で居ることで自分を満たせばいいのに、"脱獄"なんて余白をもてあましているからだめなんだ。"脱獄を試みる"なんて"余分"を考えることで自分を"満たした"気になっている。それは虚偽の"満足"でいて、それはとても悲しいことだ。だから僕は…そういう人々は、溺れるべきだと思うんだ」

ジョンガリ・Aはもう帰らない。

「なあ、ジョンガリ、君は幸せだったんだぜ」

羨ましかった。
本当は愛しちゃいなかった。
いなかったんだ。
ただあんたが羨ましくて、
ただあんたに嫉妬して、
だってあんたは幸福なんか求めちゃあいなかった。
それが幸福だってのに、
最初からぼくの事なんか、待ってくれちゃあいなかったんだ。
あんたはずっと、"その時"を待っていた。
待つ必要のない"その時"を。
あんたは"待つ"必要すらなかったってのに!
知っていたんだろう?ジョンガリ・A。
あんたはずっと……溺れてたんだ。





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