100000!!番外if詰め合わせセット | ナノ

全身から吹き出した汗で、いっそ水たまりでも出来るんじゃあないだろうか。二階堂はよく滑る板張りの床を忌々しく思いながら、目の前に佇む男を静かに睨み上げる。

「病み上がりだってのに、よくやりますねえ。おめでとうございます、新記録ですよ」
「……別に病んじゃあいない」

彼女の耳元から顎にかけてをがっちりと覆ってしまっている、ひどく厳ついデザインのマスクの空気孔から聞こえた声はくぐもっており、もともと小さかったせいもあって、ほとんど蚊の鳴くような、と形容出来るものだった。半ば恨みがましいようなその目線にラッポラはわざとらしく目を逸らす。それもこれも、エア・サブレーナ島に二階堂の身柄が送られてからも続くラッポラの(半ば個人的な関心による人体)実験のせいだ。昨晩切開された右腹部から上腕部にかけての傷が治りきっていなかっただけの話であって、それさえなければ、もう二三発は叩き込めた筈だとぼろぼろにすり切れた練習台を横目に思う。治りきっていないとはいえども、それらだって今ではきちんと塞がっている。すこし皮膚が薄く脆くなっているくらいのものだろうか、痛みは伴うが、別段動きに支障は伴わない程度。波紋というものは便利だと思いながら、傷口に掌をあてがった。波紋の呼吸に意識を集中させれば、じんわりと患部が温かみを帯びた様な気がして、そして痛みが和らいだ。傷を塞いだり、癒したりするのにも有効だとならったのは、実験がずいぶんと多くなるそのつい三日前のことだ。

「波紋の呼吸での生活も、板についてきたようで安心です」
「……」

二階堂は胡散臭いものを見る目でラッポラを一瞥する。彼もずいぶん作り笑いが上手くなったものだと思ったところだった。最初は笑顔のひとつも浮かべずに、ただ自分の体を滅多刺しにするマッドサイエンティストかなにかかと思ったものだが、最近はこうして、媚び諂いが増えてきたような気もするもので。どういう心変わりなのかはさっぱりわからないが、ユノーが不機嫌そうに彼の腕時計を草むらの先に放り投げているのを目撃した手前、二階堂は彼を突き放すことを諦めている。ブルガリの時計は、さすがに彼ほどの男といえどもほいほいと買えたものではないと思ったからだ。

「もう二日ほど食べてない」
「波紋で緩和されている筈です。腹も空かなければ排泄物も出ない、まるでジャッポーネのアイドルみたいじゃあないですか。血糖値の正常値がいつまで保つかの検査が明後日の22時ですから、それまでは」
「検査?…むしろ君の個人的感心の方が強いんだろう」
「ジョースターさんがいらっしゃれない今週が絶好のチャンスなもので」
「いたいけな子供を餓死させるつもりか」
「いたいけな子供はここにはいませんからね。実質何も問題ないじゃあないですか、むしろ身体が軽くなってるんじゃないですか?」
「だから技の精度も上がった、といいたいわけか」

二階堂は呆れたように小さく舌打ちを打ってみせただけだった。腹が空かないかといえばそれは大間違いで、自分の胃袋はきっとぺったりとはりついてしまったに違いないと思う。きっと屠殺される前の羊はこんな気分に違いないと思いながら、手渡されたボトルを手に取った。何が入っているかはわからないが、きっとろくでもないものだろう。その予想は間違っておらず、経口補水液は水より味が悪いものだった。

「午後は新しいメニューに入りますから」

そうにっこりとわらってみせたラッポラが連れてきた場所は、彼女が初めて足を踏み入れる大理石の塔だった。ラッポラは荘厳な門をくぐり抜けると、二階堂は油の臭いに顔をしかめる。柱の下を覗き込みながらラッポラが言った。

「高さは24m、最大円周は7m20…エア・サブレーナ真の名物、地獄昇柱、といいます」
「ヘルクライム・ピラー…」

今までも名物になりそうなおかしな修行場ばかりだったじゃあないかと思いながら、二階堂はおうむ返しに復唱する。「今からここに落ちてください」その言葉に、「は?」と返事をするまでの間に、二階堂の身体は鳩尾に深く食い込んだラッポラの回し蹴りに吹き飛ばされていた。呼吸困難とマスクと相成って息が出来ないまま油の海に落ちていく、ひどくその瞬間が長く感じられた。どうやら本当にこの男は自分を殺したいらしい、咽せて呼吸を取り戻せないまま溺れかける二階堂の心に塔の頂で笑顔のラッポラへ殺意が沸く。

「素手で登ってきてくださいね―――ッ!俺、待ってますから!」

素手で登ろうにも、こうも油が垂れ流しになった大理石の柱など無理ゲー以外の何者でもない。二階堂は途方に暮れながら掌を見つめる。波紋でくっつけということなのだろうが、あいにく二階堂は安定して波紋を流し続けることが得意ではない。五メートルほど登っては波紋が切れて、底に落ちることを数度繰り返した。

「……」

泥仕合はきらいなんだけれど。右手でピアスに触れながらはるか上の頂を見上げた。
波紋さえ続けば指三本でもくっついていられることに気づいてからも、二階堂は繰り返し落ち続けて、時間の感覚などとっくに失くしている。
絶望の縁に突き落とされるとはまさにこのことだと思って、「やるのか、死ぬのか」の二択が頭をよぎっては、小さく舌打ちを打つことしかできなかった。




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