朝になってしまうのが、酷く怖かったのを覚えている。 その日は、どうしたって寝付けなかった。まったく休めたような心地ではなかった週末を明けて、本来ならば、当時のぼくがもっとも楽しみにしていたはずの月曜日が億劫でたまらなかった。 左頬の傷はようよう塞がって、赤茶けた瘡蓋になっていたって、ぼくはあの時の、ひとたび、ただ呆然としたような、あの血のような紅が怖くて仕方がなくて、布団の中で丸くなって、目を閉じて、朝が来るのをひたすらに拒絶していた。 それでも朝はやってくるもので、ぼくは鉛の様になった体をベッドから引きずり出して、亀が着替えるのよりもずっとゆっくり袖に腕を通した。朝ご飯は半分も喉を通らなかったから母さんに心配されたけど、風邪をひいたわけでもない。緑色のきらきらは、今日はどこかひっそりと息を殺しているみたいに静かで、誰にも気づかれないどころか、ぼくにすらどこにいるのか、よくわからなかった。錘の付いたように重たい足をなんとか動かして、ランドセルを背負ったぼくは家を出て。そして、いつもの交差点で、あの子を待たなかった。待てなかった。ぼくは酷く臆病だった。 たどり着いた教室はひどく寒くて、冬が来たんだと直感的に思い知った。既に何人かが席に着いたり、立って雑談したりしていて、ぼくはいつものように一番端の窓際の席に腰掛けたけれど、それからは本当に、奇妙なくらいに『何も』無くて。そう、途中で狐がぼくの前をよぎることすらなかったのを、ぼくは酷く奇妙に感じたのを覚えている。 それもそのはずだ、途中でちらりと伺った教室の中に、あの子はいない。ぼくのきらきらひかる緑色が探しまわっても、あの子はそもそも、学校にすら来ちゃいないようだった。 そうしてぼくは、少し前のぼくの日常は、こんなにも空虚なものだったのかと思い知った。 そして、たまらなく悲しくなった。 こんなこと、いままでなかったのに。 そこで、ようやく、愚かしいことながらに、初めて、「ぼくはあの子を傷つけてしまったのではないか」という仮説を立てたのだった。 あの時ぼくは、確かにあの目が怖かった。身体中を冷凍庫に放り込まれたような気分なって、胃の中にあったものを全て吐き出して、息の仕方も忘れて、酸素を無くした金魚のように、ただ口をパクパクと動かして、ああ、きっと殺されてしまうと思ったのだ。けれど、ぼくは気づいてしまった。それがなんて馬鹿馬鹿しいことだったかを。彼女はぼくにとって唯一無二な、希有な存在だというのに、ぼくはあの子を怖がった。それは正しかったのか。ぼくは自分に問いかける。 (彼女はぼくを傷つけたか?) (違う、ぼくが要を傷つけた) 「――、――さんは転校することになりました。おうちの事情で、もう既に遠くへ行ってしまわれて、花京院くんに挨拶することが出来ないことを残念に思っていたとのことです」 ぼくは耳を疑った。今この女はなんと言った? 転校?既に遠くへ行ったって、どこへ? 「嘘だ!」 たまらなくなって駆け出した、ぼくを呼ぶ声はもう届かない。きらりと光ってみせた緑色のそれが届くよう、全ての感覚と心をかけて、ぼくはその日、町中を駆け回った。二人で通った通学路も、母さんに二人で遣わされた商店街も、彼女が連れて行ってくれたゲームセンターも、しょっちゅう通っていた図書館も、時間をつぶした公園も、おやつを買ったコンビニも、ぼくの家も、そして、彼女が嫌ってやまなかった、108段の石段を駆け上がった、その先も。 けれど、いなかった。 どこにも。 ほんとうに、彼女は。 緑色の人形が、申し訳なさそうにぼくを見つめているような気がしたのは、ぼくの気のせいだっただろうか。 力はもう抜けてしまって、地に膝をついて。 ただ息を切らして、呆然としていた。 「ぼく、そんな息を切らして、どうしたんだい?」 見上げれば、この寺の人だろう、一人のお坊さんが、何事かとぼくを見下ろしていた。 ああきっと、この人もきっと、あの子を嫌ったんだ。 あの子を畏れたんだ。 だってあの子は、"居場所なんてないさ"と、いつでも諦めたように笑ってみせて。 "望まれる様な子供じゃないんだ"なんて言ってみせて。 見せかけのような愛すらも、もらえたためしなんてなくて。 あの子はいつだって、一人で、ぼくがいないと、ひとりぼっちで。 (ひとりぼっちは寂しいと、ぼくたちは知っていたのに!) あの子の瞳の様に、紅く染まった世界が滲む。 ぽたり、と、水滴が地面に吸い込まれていった。 「要…要……ッ!!」 きみはいま、どこにいるの。 きみがいないと、ぼくはまた、ひとりぼっちだ。 辺りが暗くなっても、涙は止まらなかった。 返事がないことなんか、とっくに理解していけれど。 ぼくはその名を呼ばずにはいられなかったんだ。 あの日ぼくは、生まれて初めて失せものをした。 ×
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