30000!! | ナノ

目の前をちらつく白い尾に、初流乃は静かに微笑んだ。きっとパードレがマードレに話してくれたんだろう、背中から緑色の触手を伸ばされて、狐の尾がぱしりとそれを弾いた。ベルヴォルペ・ユノーには自我がある。「もったいぶってないで教えてよ、ユノー」きっとパードレがそういったのだろう。狐は駆けていく。すでに見つけてあるらしい。ハイエロファントグリーンが見つけられなかった所にいるなんてどういうことだと頭をひねったが、単純にハイエロファントグリーンは初流乃についてきただけのことらしい。ユノーが物陰から尻尾だけで初流乃たちを招いた。
初流乃がひとりぽつんとフロアの一番端の水槽の影に座り込んだ徐倫を見つけたとき、緑色のそれはすぐに背後の通気口に潜んでいった。きっとマードレたちにぼくたちの教えるつもりなのだろう。それでいい。
吃逆声をあげてすすり泣く徐倫はまだ、初流乃に気づいてはいないようだった。

「徐倫、どうしたんですか。みんな心配してますよ」

その声に頭を持ち上げては「ハルノ!」少し裏返った声で叫んだ。そしてその瞳にまた、じわじわと涙が浮かんでは、ぽろぽろと雫をこぼす。それを徐倫は両手で掬い上げようとするにも、ままならない。初流乃は小さく息をついて、肩から下げたショルダーバッグのポケットから、ハンカチをスマートに取り出す。徐倫に差し出したところで、彼女の拳と、まくり上がったスカートの間からのぞいた膝が擦りむいていたことに気づいた。転んだのだろう。初流乃が次に取り出したのは、ケースに入った絆創膏と、携帯用の小さなボトルに入った消毒液。パードレと昨日のうちに抜かりなく準備したものだ。いざというとき、やっぱり役に立つ。

「ちょっと沁みますからね」
「がまんできるもん」

徐倫は涙に濡れた頬を少しだけ、ぷっくりと膨らませた。その仕草が、どことなくマードレがパードレと喧嘩したときの様子に重なって見えて、初流乃はすこし苦笑いする。アメリカにいたときに買った絆創膏たちだったからいくつか、派手な色をしていたものだから、徐倫の前に「どれがいい?」と差し出せば、蛍光ピンクのものを指差す。自分では使わない色だったからちょうどいいや、と初流乃は思わないこともない。
きっとここにいれば、三人がじきにやってくるだろう。
初流乃はそう思って、無理に三人を探さないことにした。
振り返ったところに、大水槽があった。
ただひたすらに、青い。網膜に焼き付いて離れない、巨大な青い世界だ。遠くのほうに、マンタの魚影が見えた。大きいから、すぐわかる。ユノーが駆けていってはひとの影を伝って分厚いガラスをすり抜けて飛び込んだ。水槽の中で、魚を威嚇しては遊んでいる。魚にはユノーが見えているのだろうか。どことなくユノーを避けて泳いでいるようにも見えた。あの狐は濡れることを知らない。
しゃがみ込んでいた徐倫の手をとって立ち上がる。ふたりして引き寄せられるように階段を降りて、大水槽の前に並ぶ。徐倫は眩しそうに大水槽の魚達を見つめた。マダラトビエイ、クエ、アオウミガメ、ホシエイ。口々にそれらを指差しては、名をあげていく。流石海洋学者の娘だと、初流乃は少し驚いた。「ずかんでべんきょうしたの」涙声だった。

「徐倫ね、お魚さんたち、きらいじゃないのよ」
「知ってるよ」
「ダディはそう思ってるみたい」

この親子はいつも、意見の食い違いが多いと初流乃は思う。きっと承太郎さんが口べたである(とマードレが言っていた)のと、徐倫がつっけんどんな態度をとっているせいもあるのだろう。徐倫はため息まじりに呟いた。いつも。わたしがいいたいのは、そんなことじゃないのに。

「いつもママや徐倫のこと置いてっちゃうの。ダディ、徐倫のこと嫌いなのかな」
「そんなことないと思うけど」
「徐倫、ここに置いていかれちゃうのかなあ」
「まさか」

水槽にあてた掌に、小さなウメイロモドキがよってきた。背鰭と尾鰭は鮮やかな黄色、体背部は鮮やかな青色の美しい魚だ。今にも泣きそうだったお姫様は、またひとつ、ぽろりと大粒の涙を零す。
ぼくじゃあ、どうにも無理そうです。承太郎さん、早く来てくださいよ。

「ぼくは、徐倫。あなたが思っている以上に、承太郎さんはあなたを大切にしてることを知ってます」

マードレが、いつもそう言ってますから。そうは言っても、彼女には慰めにもならないとはわかっていたけれど。初流乃は水槽の中に視線を戻す。
ユノーが徐倫の前にやってきた。徐倫には、狐の姿は見えない。
白い尾を振る。その眩しい白につられたのだろうか、偶然だろうか。マンタの大きな体がこちらに向けて優雅に泳いでくるのが見えた。あまりの大きさに、初流乃は目を見開く。テレビで見るよりも、ずっとかっこいい。
徐倫はその初流乃の顔を見て、少し笑った。いつも大人しい初流乃が興奮しているのが、面白かったのかもしれない。


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