30000!! | ナノ

このじとりと肌にべたつくような空気を、花京院はあまり心地よいとは思わない。終業のチャイムがなってしばらく、日直の勤めを終えた頃には、雨は激しさを増していた。これは傘を持って来て正解だった、と思いながら、昇降口で深い緑色の傘を広げる。広い傘だから、濡れる心配はない。
通い慣れた通学路を歩んでしばらく、少し寄り道をしたくなった。雨の日にわざわざ、と少し自嘲気味に苦笑を浮かべながら、キラキラ光る緑色の、己の分身を見つめる。上機嫌なのかもしれない。
図書館の前に差し掛かった頃、よく見知った後ろ姿を見つけた。
こぢんまりとしたアンティーク調の時計屋の軒下、降り注ぐ雨粒の向こうでも、派手な金髪は目を引いた。朝からのじとりと湿った曇り空で、陽が陰っていたせいだろうか、いつもの黒いコートは着ておらず、セーラ服でいるのがやけに新鮮に感じる。
ちょうど信号が青に変わったので、横断歩道を渡った。屋根から零れ落ちた雨垂れがコンクリートに打ち付けられて、ぱちぱちと弾けるような音が鳴っていた。ショーウインドウの前で、彼女はじっと何かを見つめていた。肩と髪が濡れている。どういうわけか、傘を持っていなかったらしい。
どうしたの、と声をかけようか迷って、とりあえずもう二、三歩歩み寄って、それでも彼女は動かない。その視線の先、ガラスの向こう側では、明るいネオン燈に照らされて、一秒ごとに銀細工のふくろうの赤い眼がくるくると動いたり、いろいろな宝石が海のような色をした厚い硝子の盤に載って星のようにゆっくり循ったり、向かい側から、銅の人馬がゆっくりとまわって来たり、ずいぶんと賑やかな様子が見て取れた。
もう二、三歩近寄ったら今度は彼女が自分に気づくだろうか。ひょっとしたら、もう気づいているのかもしれない。花京院は二階堂の顔を覗き込む。彼女はじっと、どこかぼんやりと、モニュメントたちの中心に据えられた、青いアスパラガスの葉で飾られた、まるい黒い星座早見を見つめているようだった。何を考えているのだろう。どこか空虚な瞳、そして、花京院には気づいていない。

「…要?」

その声に、ふとひと息ついて、二階堂の瞳に光が宿る。少し驚いたような表情になった。

「君か…あれ、日直だったんじゃあ…」
「もう五時だよ、傘は?どうしたの」
「学校に忘れた……帰る時は、まだ降ってなかったんだ。なんとなく、図書館に行こうと思ったら、途中で降ってきて」
「…君って、変なところで抜けてるよね」

濡れちゃってるじゃあないか。風邪でもひいたら…、そこで花京院は言葉を切る。二階堂は眉間に皺を寄せて、少し頬を膨らませていた。

「べつに、いいじゃあないか。ちょうど、君が来てくれた」
「あのねえ…」
「図書館?」
「今日はいいや。君を送っていく。ずいぶん濡れているようだしね。風邪ひかないうちに、帰ろう」
「……ごめん」

取手のランナーを押す。ばさり、水滴が飛び散って、深緑が広がった。二階堂は花京院の顔を覗き込む。「今日は二つ、持ってないのか」「さすがに置き傘は学校だよ。まあ広いから、大丈夫さ」ふうん、と曖昧な返事をして、それからもう一度、ちらりとショーウィンドウを見やったようだった。

「ずっと見ていたの?」
「うん、でも…まあ、特に理由もないんだけれど」
「やけに真剣に見つめてるものだから、どうしたのかと思ったよ」
「……少し、懐かしくなっただけだ」
「懐かしい?……ああ…たしか、昔、うちにあったっけ」

二階堂が小さく頷く。そういえばそうだ。銀の装飾のなされた、あれは確か、リビングの置物で、ただの置物にしては、しっかり、細かく造り込まれていたから、きっと質のよいものだったのだろう。天球儀と対になって置かれていた。二人で膝を突き合わせて、くるくると文字盤を回して、暗くなりかけた秋の星空を眺めようと、そんな日もあったねと花京院は笑う。ちょうど二階堂が図書館から、ふしぎな獣や蛇や、魚や瓶の形に書いた図が描かれた本を借りてきて。ほんとうにこんなような蝎だの勇士だの女神だのが、そらにぎっしり居るだろうかとぼくは君に訊いたんだった。

「私は、いつかわかるさって、答えた。そしたら君は、その中を、ふたりでどこまでも歩いて見たい、だなんて言ったりして……」
「そうそう、良く覚えてるね」
「ちょうどそれを、思い出してたんだ」
「懐かしいね」

あの時は、まだ何も知らなかったんだ。雨に手を伸ばしながら、二階堂は呟く。人差し指の上を、水滴が伝う。脳裏に浮かんだ、あの秋の夜。暗くなった境内の片隅で、ぽっかりと浮かんだ月、星座は星を眺める花京院の姿を、今でも二階堂は覚えていた。青白い光に照らされて、そのとき、私は。

「……愛しい、と」
「?」
「君が……美しい人間だと思ったんだ」

赤い信号、立ち止まった二人。狭い傘の中で、くるりと振り返っては、ぺたり、唐突に二階堂の手が、花京院の頬に触れた。そっと撫でるように触れて、冷たい指が花京院の前髪を梳く。
目を細めて、彼女は笑っていた。

「また二人で、星をみたい。今度は、もう、どこまでも歩いていける」
「ああ、君となら、どこへだって行けるだろうね」

そっと触れるような接吻を、ひとつだけ、落とした。
ああこのひとが、たまらなく、いとおしいと、そう思う。



匿名様 誠実主を幸せにしてあげてください!とのことでしたがいかがでしたでしょうか!思わずこのリクエスト見た時には吹き出したのを覚えています。予想以上に甘くなって朽碌はびっくりしています。このリア充が…(ギリィ リクエストありがとうございました!


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