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That will get you nowhere.

 背後で扉が開いた音を合図に動きを止め、振り返る。センター分けにした前髪に今日も隙はなく美人の真顔には迫力がある。
「ああ、マイカ。次使う? 私はもう出るから」
 時間帯によればレッスン場は貸し切り同然となる。誰の目もないところで一人で練習することも時には必要だ。丁度切り上げようと思っていたのでいいタイミングで彼は来た。
「マイカ?」
 反応がないのでもう一度名前を呼ぶ。ただこちらをじっと、不機嫌さを滲ませながら見ている。そして眉を寄せながら口を開いた。
「お前、歌わないの?」
「練習メニューにある分には歌ってるでしょう」
「そういう意味じゃない」
 眉間の皺はさらに深くなる。
 確かにさっきまでの自主練習では歌っていたがそれは珍しい話でもない。シンガーではないからといって歌のレッスンをしないでいいというわけではなく、ある程度はこなせる必要がある。もともと“ミカゲ”はシンガー兼パフォーマーだ。現時点でチームPにシンガーがいるので歌う必要はなく、その時が本当に来るかどうかは別として。
「シンガーも兼任してただろ」
「そうだね。“ミカゲ”はシンガーだった」
「なら、お前もシンガーなんじゃないの」
「どうかな。歌う必要がないなら別に歌わなくても構わないとは思ってはいるけどね」
 苛立たしげな舌打ちと共にマイカは近付いてくる。
「そんなものなんだ。お前にとって歌って」
「だから、何?」
「ミカゲの歌は僕も聴いたことがあるんだ」
「そう」
「吉野とは違う意味ですごかった」
 抜群の歌唱力と存在感。
 いくら練習を重ねたところで天性のセンスに敵うはずもない。自分が歌ったところで意味はない。それは最早ミカゲではない。
「お前、ミカゲを名乗るなら歌と向き合うべき」
 シンガーに共感できるのはシンガーだけだ。マイカにはそのプライドや背負っているものが分かるのだろう。けれど。
「これでもね、私はミカゲを尊重しているつもり。だから歌わない」
「でも、今はお前がミカゲだろ」
「本当にそう思ってる?」
 歌唱力で劣る? 身体能力で勝る? 性格が違う?
 どれも少しずつ当てはまる。
 ミカゲを名乗ることに何の意味もない。いくら兄の代わりにPに所属しようが、兄の代わりにステージに立とうが、兄の代わりに客に愛想を振り撒こうが、ミカゲになれはしない。旧スターレスのメンバーは誰も自分のことをミカゲとは呼ばない。ずっと2号のまま。
「死んだ人間に成り代われるわけないのに」
 マイカが唖然とした表情を浮かべる。
「そんなの、何も報われないじゃないか」
「私はそういう目的でここにいるわけじゃないから」 
 スターレスに来た人間には様々な事情がある。全てを手放し退路を絶ち、そうして集まった人間は揃いも揃ってどこか歪だ。
 マイカは自分の歌を歌いたくてここにいる。手段はどうあれ実に前向きで建設的だ。けれど、自分は別に歌いたいわけでも踊りたいわけでも演じたいわけでもない。そこは分かり合えない部分だろう。
「いいの、それで」
 理解できないといった風にマイカは表情を歪める。
「何が?」
「今のスターレスにいるミカゲはお前だろ」
「表向きはね」
 客は皆、私のことをミカゲと呼んで疑わない。
 けれどステージの裏ではそうではない。誰もミカゲの名を呼ばない。ミカゲなどいない。いるのは紛い物の2号だけ。
「お前、」
「じゃあ私行くね。お疲れ様」
 まだ何か言いたそうな顔をしたマイカだったがそれ以上引き留めることもない。しかし、
「誰か言ったのか」
 大声ではないのによく響くいい声だ。
「誰かが、お前が偽物だって、ミカゲじゃないなんて言ったのか」 
 苦々しい表情だ。何か、自分に返ってくるような台詞なのだろうか。
「別に。言葉なんて大した意味ないでしょ」
「あっそう。……じゃあね、ミカゲ」
 最後の一言は妙に優しかった。
 
 
 
 誰もがくだらないことばかりに頭を使いすぎている。無駄な労力ばかり使う。
 
 チームが揺らぐなら上から押さえ付けて支配してしまえばいい。
 現状に不満があるならさっさと出ていくなりなんなりすればいい。
 ナンバー2に問題があるならその地位を奪ってしまえばいい。
 歌いたくてここに来たのならば歌えたことに満足すればいい。
 不仲など当人達の問題だと放っておけばいい。
 第三者として見守るならもっと無関心でいればいい。
 
 どうしてこうも問題ばかりなのか。
 ああ、くだらない。
 妥協でも何でもさっさとしてしまえばうまくいくのに。
 
 私もくだらない。
 こんな場所にいても意味はないのは分かりきっているのに離れられない。兄の代わりをすることに意味はない。けれど、そうしなければ分からないことがある。
 規格外な兄。自分勝手な兄。私を置いていった兄。ステージの上で輝く兄。彼が最後に見つけた光は何。そんなに素晴らしいもの? 好ましいもの? 気に入ったもの? 大切なもの?
 
 ねえ、教えてよ。どの程度のものなの。