小説(blst) | ナノ

この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ。

 初夏。停滞した梅雨前線によって引き起こされた雨は昨晩からやむ気配がなく降り続いていた。ぬるい風が頬を撫でる。傘を差しているのに体のあちこちに水がはね跳び、濡れたレインブーツの爪先が鈍く光をはじく。
 傘を少し傾けて雨の中彩度を落とした視界の中に浮かぶ建物を見上げた。ほんの数か月しか経っていないのにひどく懐かしく感じるのはそれだけ思い入れがあったのか、それともただの気のせいか。
 看板に光が灯っていないのを見る限り営業はしていないのはあきらかだった。けれど気にせず古びた扉に手をかける。建物内では明かりがついており、僅かだが人の気配もある。さて、どうするべきか、と閉じた傘の先から滴り落ちる雫が床を濡らすのを見つめていると足音が近づいてくる。そちらを見ると段ボールを抱えた眼鏡の男がいた。人の良さそう、悪く言えば押しに弱そうな雰囲気の彼に見覚えはなかった。ワイシャツにネクタイという会社員のような服装もこの場には異質。
「そこのキミ」
「えっ」
 声をかけられて初めてその存在に気が付いたらしい若い男は目を見開き、そして申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、ただいま休業中でして……」
「ああ、違う。客じゃないので」
 ステージを観に来たわけではない。本題は別にある。
「キミって、ここの新しいスタッフ?」
「あ、はい」
「お願いがあるんだけど。黒曜かリンドウに“2号が来た”、って伝えて欲しい」
「えと、はい!わかりました!」
 困惑の表情を浮かべつつも男は荷物を持ったまま走っていく。そこまで急がなくてもよかったのだが頼んだタイミングが悪かったらしい。
 軽く息を吐き出してから年季の入ったエントランスをしばらく眺め、さらに奥へと進む。傘をつたって落ちる水が道しるべのように跡を残す。壁に貼られたポスター、空気をかき混ぜるファンの音、くすぶった匂い。どれも記憶のままだ。そんな短期間で変わるわけもないのだが、変わっていないことに何故か安堵する。けれどそれも長くはない。
 きしむ音を立てて開いた扉の先は荒れ果てていた。薄暗いホールの床に散乱するガラス片を踏むとパキリと音を立てて割れる。無事なものなどない。テーブルは泥に汚れ、壁にも数えきれないほど傷がある。ステージのライトは悉く落ち、床には大きな穴が空いていた。これではパフォーマンスはできないだろう。
 なんとか使えそうなレベルの破損ですんでいるソファを見つけそれに座る。
 この半年はあまりにも慌ただしかった。オーナーや演出家夫妻、キャストの失踪。新しいオーナーの横暴。今まであったものが根本から崩れ落ちようとしていた。誰にも何もわからないまま事態だけが動く。あがいてもがいて、それがいったい何を生み出したというのか。

 扉の開く音に振り返る。また、知らない男がいる。さっきの眼鏡の男ではない。日本人離れした容姿に、威厳のある立ち姿。一度でも見れば忘れないだろう。
「貴様がミカゲだな」
 歩きながら男は問いかける。
「そういう呼ばれ方もされてはいるけどね」
 立ち上がり問いに答えた。
 それにしても目の前に立った男の纏う覇気は何だ。まるで王ではないか。青い目は全てを見通すような力を秘めている。委縮しないように背筋を正した。
「キミは、誰」
「ケイだ。話は聞いているだろう」
「そう、キミが」
 ケイ。全てを捨てはるばるアメリカからやってきた男。新しくスターレスを取り仕切ることになった男。目的の読めない男。
「なにか、私に用事?」
「俺に用があるのは貴様の方ではないのか」
「キミに用はない。話があるのはリンドウ、それと黒曜」
「兄の件だろう」
「ええ。話し合いが必要だから」
「その必要はない。“ミカゲ”には今後もステージに立ってもらう」
 頬が一瞬ひくついた。
「何を……」
「単純な話だ。今までと同様貴様が兄の代わりにステージに立つ。それだけだ」
「それだけ? いったい私に何のメリットがあるの」
 もう、あんなことをする必要はないのだ。兄の代わりなどごめんだ。あざとく笑うのも、無意味に愛想を振りまくことにも辟易する。自分勝手な兄にいつまでも付き合ってなどいられない。
「よく考えてみるがいい。時間はそう与えられないがな」
 そう言い残し男は去っていった。
 床に落ちたガラス片に自分の顔が映っている。いつも通りの冷ややかと言われがちな表情。兄と同じ顔なのにこうも印象が違う。途端に嫌悪感がせり上がり靴底でガラスを踏み潰した。粉々になればもう何も写さない。

 また、扉の開く音が聞こえた。そちらを見ると今度こそ見知った姿がある。
「ああ、ここにいたんですね」
「人呼んでおいてうろちょろすんな。探しただろうが」
 二人は近づいてくる。何と切り出すべきか考え、手に持っていた傘の先端で何度かで床を叩く。飛び散る水の量はだいぶ減った。
「移転はいつ」
 二人から視線を外してステージを見る。新しいオーナーのこと、ケイのこと、移転のこと、スターレスに起きた様々な事情の粗方については連絡を受けている。自身の身の回りも落ち着いたタイミングだったため今日はこうして足を運んだのだ。
「3か月後の予定です」
「そう」
「で、お前何でここに来た」
 目の前に二人が立った。首を動かして正面を見る。
「あっち、死んだでしょう」
「ああ」
「だから最後の挨拶くらいするのが道理だと思ったんだけれど」
 そこで一度言葉を区切り、改めて口を開く。
「気が変わった。このまま代理でキャストを続ける」
「ちょっと待ってください」
 リンドウが声を上げた。
「彼が亡くなった以上は今後貴女が代理を続ける必要はない」
「本気で言ってんのか、お前」
 黒曜も訝し気に目を細める。
 しかし発言を撤回する気はない。
「ケイ、と言ったかなあの人。彼もそれを望んでいるようだし」
「……何考えてんだあいつは」
「確かにキャストは全員残留とは言っていましたが、まさか彼女までとは」
 あの男の名前を出せば二人の反応が変わった。それほどまでの発言力をスターレスで持っているのだろう。
「それで、どう。二人には話を通すのが道理だと思ったんだけど」
 そう言えば二人は仕方がないとでも言いたげ実に苦々しい表情で頷く。
「心配しなくても今までと変わらないよ。私は“ミカゲ”だけど2号だから」
 思わず自嘲気味な笑みが口元に浮かぶ。兄の代わり、2号。その名を背負っても本物にはなれないのだと自分を嘲笑う。
 兄に連れてこられ、半ば無理やり代理を任されるようになって随分と経つ。奔放で自分勝手な兄は事あるごとに代理を頼んできた。何故こんなことをしなければならないのかと思いつつ断ったことが一度もないのも事実。どこかでこの状況を受け入れていた。どうしてなのだろう。どうして、スターレスから離れられなかったのだろう。
 そうこうしているうちに規格外な兄はあっさり死んでしまった。これで完全にスターレスにいる必要性はなくなった。今日は、最後の挨拶をするつもりだった。なのに、実際に口から出たのは真逆の言葉。
「でも、少し安心しました」
 不意に、リンドウが口を開く。
「何が?」
「後を追うんじゃないかと思っていたんです」
 それは、考えたこともなかった。けれど他人から見たらそう感じるのだろうか。
「違いねえな」
 同意する黒曜。
 そうなのだろうか。ああ、けれど、
「今日、スターレスに来なかったらそうなってたかもね」
兄にスターレスに引き留められたのはこのためだったのかもしれない、と考えるのは買いかぶりすぎだろうか。