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行くも戻るもいばらの隘路
※共学
※11幕あたり
※匂わす程度ですがそういう描写があります

 ほとんど突き飛ばされるようにベッドに押し付けられたため何が起きたのか一瞬分からなかった。マットレスが衝撃を吸収してくれるため痛みはないが、驚きと困惑はどうしようもない。シーツに縫い付けられた手首が痛くて抜け出そうとするが余計に力を込められる。抗議の声を上げようと視線を上げると、ひどく険しい表情の冬沢に見下ろされていることに気が付き出そうとした声を飲み込んだ。人並に喧嘩をしたことは何度もあったが、こんなにも追い詰められた顔は初めて見たかもしれない。
 最近、様子がおかしいのは気が付いていた。それが何に起因するものなのかも何となく感づいていた。けれどそれは名前にはどうしようもないことで何も出来ず、歯痒いけれど見守るしかないものだった。それに、冬沢は絶対に自分には何も相談しないだろうという確信に近いものがある。そこまで踏み入ることができるほど関係は深まっていない。

「四季と」

 無言を貫いていた冬沢がようやく口を開く。底冷えするような声だった。

「四季と、何をしていた」
「何って……」

 今日一日のことを振り返る。確かに四季には会った。息抜きで訪れた屋上で燕尾の代わりにカーディガンを着た彼がいて少しだけ話をした。内容はたわいのない、それこそ今日も天気がいいですね、くらいのものだ。というかどうしてそれを知っているのか、と疑問に思ったところで以前に華桜館からは屋上が見えるのだと誰かが言っていたことを思い出す。

「ちょっと話してただけなんだけど」
「どんな」
「今日も晴れてるね、とか」
「他には」
「今朝は寒かったね、とか。風邪ひかないように気を付けないとね、とか」
「……そう」

 少しだけ手首を掴む力が弱まったが抜け出せるほどでもないし、名前には抜け出す気はもうなかった。

「ふつう、彼女が異性と二人っきりで会うの嫌だよね」

 言葉をぼかす。四季と二人っきり、なんて言えるはずがなかった。触れてはいけない場所だと弁えている。いつもなら冬沢は大して気にもしなかっただろうが、今はタイミングが悪い。最悪だ。彼の気持ちを理解できる、なんてことは言えないがそれでも何を嫌がりそうかくらいならわかる。これは完全に自分の落ち度で、責められるべきだ。
 なのに、冬沢はそれ以上何も言わずに名前を見下ろすばかり。先ほどと比べたら表情の険しさはいくら和らいだがそれでも平静には程遠い。眉間に寄る皺も、細められた目も、何かを耐えるように引き結ばれた唇も、名前の手首を掴む震える手も全てが危うくて、ほんの少しの衝撃で冬沢亮という概念が崩れてしまいそうだった。
 全部ぶつけてくれたらいいのに、と思う。そうすれば少しでも楽になるのではないか、気が晴れるのではないか。けれど、そうしないのが冬沢亮だ。客観的に見て、名前は現在進行形で無体を働かれようとしているようなものだが、きっと彼は何もしない。一時的な感情の高ぶりでこうなってはしまったが、その先へと進むことを冬沢の矜持は許さないだろう。正しく美しくあるべきだ、という冬沢の在り方が名前は好きだったが、たまにそれがとてももどかしい。彼が正しくなくても美しくなくても名前は冬沢のことが好きだし、それを許容してくれないと思われているのが悔しかった。

「……すまない」

 そう言って冬沢は深く深く息を吐きだした。そして跡が残るほど力を入れて掴んでいた名前の手首から手を離すと、いたわる様にそっと指先で撫でる。確かに手首は痛かったが痛そうなのはむしろ冬沢の方だった。

「いいよ」

 名前は許す。許す以外の選択肢はない。むしろ少しだけ嬉しかった。こうして普段は見せたがらない感情の一部を知ることができた。冬沢からすればあってはならないことだっただろうが。
 マットレスへと押し付けた名前から冬沢は体を離した。顔には深い苦悩が浮かんでいる。名前は体を起こし、シーツを波立たせながら膝立ちで冬沢に近づく。

「来るな」

 拒絶される。それはきっと名前を守るためであり、冬沢自身を守るためだ。名前は止まらなかった。さらに冬沢に接近すると両手を伸ばす。冬沢がそれを振り払うような素振りをみせるが名前には触れない。そして名前の両手が冬沢の頬に添えられる。逃げられないようにゆっくりと顔を近づけ、触れるだけの口付けを交わした。けれど冬沢に身を引かれ唇はすぐに離れる。今度は名前が冬沢の手を掴み、自分の胸に無理やり押し付ける。冬沢の手が強張るのが布越しに伝わる。

「いいよ」

 冬沢の表情が歪む。名前にはそれが泣きそうに見えて、かける言葉を間違えてしまったのだと気が付くのにそう時間はかからなかった。けれどそれ以外に何も思いつかないし、ここまま彼の側を離れたくもなくて、そのためにはこうするしかなかった。





 こんなにも行為がぎくしゃくしたことは今までなかった。初めての時ですら多少のたどたどしさこそあったもののもっとスムーズに事は進んだ。結局のところ、セックスというものは高度なコミュニケーションだ。精神面でも肉体面でも互いに歩み寄り触れ合い高め合わなければ満たされはしない。こんなに虚しい気分になるならまだ自慰のほうが心は慰められる。
 やはり冬沢は、名前が痛がるようなことは一切しなかったし、無理に体を開くこともなかった。しかし、いつもより言葉数は少なく視線もあまり合わず、必要最低限と言っていい交わりだっただろう。
 倦怠感だけが残る体で名前はベッドで蹲る。シャワーを勧められたがそんな気力はなく先に冬沢を行かせた。なんとか下着を身に着けシャツを羽織ってのボタンは留めたが、床に落ちたスカートを拾うほどの余裕はない。ぬるい温度のシーツに頬を押し付けてただただ無意味に時間を浪費している。無力感に苛まれ身動きが取れない。
 自分が冬沢を救えるだなんて思い上がるつもりはないが、何かできることはないのかと、ようやく今日手を伸ばしてみた。けれどそれに意味はなかった。虚しさしか残らない行為が一体何の慰めになるというのか。こんなもの冬沢は望んではいないに決まっている。
 悔しくて、惨めで、情けなくて、鼻の奥がツンと痛くなる。目の奥が熱くなるがここで泣くわけにはいかないとシーツを握りしめて堪えた。こんなにも苦しくて辛い感情なんて手放してしまいたい。けれど絶対にそれは嫌だ。矛盾しているのはわかっている。ずるずると深みに嵌っていくようだった。沈めば沈むほど息が出来なくなると知っているのに逃げ出そうとしないなんて愚かとしか言いようがない。
 背後でドアの開く音が聞こえたが名前は背を向けたまま動かなかった。寝たふりを続ける。情けない顔を見られたくなかったし、どんな顔をすればいいのかもわからなかった。
 冬沢はベッドの縁に腰かけたらしく、少しだけマットレスが沈むのがわかった。

「起きているだろう」
「……寝てます」
「早く服を着てくれ」

 目のやり場に困る、と続けられ名前は今の自分の恰好を思い出す。けれど今更すぎる。名前の決して人目にはつかない場所を見たことがあるどころか触れたことさえあるのに。やはりこういうところが冬沢なのだ。どこまでも正しく、美しくあろうとする。
 名前が怠い体をなんとか起こすと冬沢が制服を差し出してきた。とりあえずスカートは履いて、名前は冬沢と背中を合わせるように座る。ちらりと彼を見上げれば濡れた髪が視界に入った。

「髪、ちゃんと乾かして」
「お前も早くシャワーを浴びてこい」

 何も、核心に触れることは言えなかった。互いに踏み込めない。背中合わせで顔を見ることすらできない。

「……シャワー浴びてる間にどこか行ったりしない?」
「むしろお前が帰っているんじゃないかと思ったよ」
「だから髪も乾かしてないの?」

 返答はなかった。肯定と捉えていいのだろうか。

「帰れ、って言われても帰らないから」
「帰った方がよかった、と思うかもしれない」
「まさか」
「わからないだろう」

 帰って欲しいと期待しつつ、けれど、帰って欲しくないと願っている。矛盾している。

「きっと、俺はいつかお前を酷く傷つけるよ」

 淡白な声だった。淡々と述べられた言葉はきっと本心を悟らせないためなのだろう。引き返すなら今だ、この先どうなってもいいのか、という忠告と共に名前を突き放そうとしている。けれど決定的な一言はない。

「いいよ」

 やはり名前はそう答える。

「亮になら傷つけられてもいいよ」

 背後で息をのむ気配がする。名前は冬沢の背中と向かい合うとそのまま抱き着く。額を広い背中に押し付け祈る様に目を閉じた。

「私、傷つけられるなら亮がいい」

 献身なんて綺麗事じゃない。他人を傷つけるくらいなら私を傷つけて欲しい。それが火傷のように一生残るものでもいい。あなたに与えられるなら痛みだって喜んで受け入れる。我儘であまりも自分本位な独占欲だ。きっと名前を傷つければ冬沢だって傷つく。
 やめてくれ、と冬沢が呟いたのが聞こえたが名前はやめない。

「嫌ならいますぐ振りほどいて。そうしてくれたらすぐに出ていくから」

 今度は名前が決断を迫る番だ。こっちはもう覚悟なんてできている。ならばそちらはどうだ? 引き返すなら今しかないのだと伝える。冬沢は、名前を振りほどきはしなかった。ただ、自分に回された華奢な腕に手を添える。

「馬鹿だな、名前」

 言葉と裏腹に口調は柔らかかった。そのまま冬沢が振り返り名前は正面から抱き締められる。背中に回された手が熱い。濡れた髪から落ちた雫が名前の頬に落ちた。応えるように名前も冬沢の背中に手を回し、絶対に離すものかとシャツをきつく握りしめた。