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あなたの虚は4000メートル
※共学


 選択授業の関係上同じクラスとなる生徒というのは新鮮だ。クラスメイトではないが、そこそこに顔を知っている同級生と机を並べて共に学ぶというのは意外といい気分転換になる。そこで新たな繋がりができる場合もあるので悪くないひと時でもある。
 名前はこの授業に限って席が右隣となった冬沢を一瞥した。そして、大当たりを引いたと席順を決めた担当教諭に内心で手を合わせて拝む。この授業に関しては二人一組のグループワークによって出来上がる課題の良し悪しが評価の大部分を占めると言って過言ではない。どの生徒とペアになるかが好成績を修めるための最重要のファクターである。
 その点で言えば冬沢亮は完璧だった。まず、最も重要なことであるが座学の成績が極めて優秀である。伊達に中等部から高等部2年まで主席ではない。そして、そんな優等生がたまに持ち合わせている他人への甘さがない。名前が少しでも手を抜こうとすれば容赦なく叱責が飛ぶ。これがかなり重要である。甘さと優しさは似ているようで全くの別物だ。何の成長の糧にもならない甘さなど必要ない。
 最高のコストパフォーマンスだと名前は常々感謝している。実際に、すでに名前は冬沢と2回課題をこなしているがどちらも評価はSSであった。
 本日出される4回目の課題も全く問題はないだろう。
 にんまりと笑いながら右隣の男子生徒の横顔を見ていた名前だったが、それに気付いた冬沢に氷点下の目を向けられ何食わぬ顔で黒板に視線を戻した。

 チャイムと共に授業は終了し、生徒たちも各々席を立つ。
ほぼ同じタイミングで立ち上がった名前と冬沢は顔を向き合わせた。

「じゃあ、また明後日。昼休みでいい?」
「いや、できれば放課後の方が都合がいいかな」
「華桜会の仕事とかあるんじゃないの?」
「6限後の20分程度なら問題ないね」
「うーん、ちょっと厳しいな。逆に仕事終わった後は?」
「構わないが何時になるか分からないぞ」
「よっぽど遅くない限り大丈夫でしょ。私もやることあるし」
「わかった。場所は自習室でいいな?」
「りょーかい」

 ほんの1分ほどで会話を終了させた二人は鞄を持ってそれぞれが別の方向へと歩き出した。
 課題に取り組む上で二人が考え出した最適解がこれだった。課題についての理解を深めるのは個人で行い、意見のすり合わせと最終的な回答を出すことは二人でなるべく短時間で済ます。言わば短期決戦である。最終学年というのは本当にやることが多く1つの課題に対して必要以上に時間をかける余裕はない。ならばこのグループワークを効率よく終わらせるに越したことはない、というのが名前と冬沢が出した答えだった。そして、それが滅茶苦茶うまくいってしまった。苦戦する他の生徒を尻目に名前は冬沢を崇め奉る勢いで「は?最高かよ」と言ったところ絶対零度の視線で見下ろされたので流石にはしゃぐのは自重した。


 約束の日の放課後になり、個人的な用事を済ませた名前は自習室へと向かう。明かりが煌々と照らす室内には誰もいない。週末のこの時間帯はだいたいこうだ
 名前は適当な席に座ると鞄からテキストとノートを取り出す。課題については自分なりに調べ意見を用意している。あとはこれをどううまく使うかだ。
 ほどなくして冬沢が現れる。そして片手に持っていたオレンジジュースの缶が名前へと手渡された。名前は缶と冬沢を交互に見てから口を開く。

「賄賂?」
「いったい何に対する?」

 それもそうかと名前は礼とともにありがたく受け取った。

「思ったより長引いてしまったからね。お詫び、というほどでもないが」
「ああ、これくらい全然。私もさっき来たばっかりだしね」

 とりあえず机を2つくっつけ、冬沢がノートとテキストを出したところで早速課題に取り掛かる。
 課題のテーマについての確認。お互いの理解度についての確認。回答の方向性についての確認。とんとん拍子に進む。1つ意見が出ればその吟味、修正、必要ならば切り捨てる。それを何度も繰り返していけば自然と答えの輪郭が見えてくる。ぼんやりとした輪郭は掴みどころがないように見えるが、冬沢はその本質を捉えるのがうまい。教師が生徒から引き出そうとしている答えから逆算して道筋を立てている。名前一人ではこうはいかない。

「冬沢様様だね」

 シャーペンをノートに走らせつつ名前は明るく呟く。

「それはどうも」

 全く嬉しそうに聞こえない調子で冬沢は答える。
 いつものことである。名前がおだてようが称賛しようが冬沢がそれをまともに受け止めたことはない。が、だいだい茶化すようにしか言葉にできない名前のせいでもある。
 冬沢亮という生徒はその手の言葉は今まで何百、何千という数受け取ってきたのだろうから今更1つや2つ増えたところで何の感慨もないのではないかと名前は思っている。そしてその積み重ねが冬沢を形成しているのかもしれない。ならば言葉は軽い方がいい。

「いやー。冬沢と組んでると楽できるからいいね」
「そうでもない」
「なんで?」
「前回の課題は一人でやったんだろう」
「ああ。あれ」

 そう、前回の課題は名前一人で終わらせた。その週で行われた校外研修のため授業に参加できない生徒が複数名おり、ペアのいない生徒同士が臨時のグループを形成することになったのだが、奇数人のためどうしても一人あまる。どこか3人で組むか、という話になったが名前は「一人でやってもいいですよ」と挙手した。教師も今回だけならと了承したため名前は課題に一人で取り組むこととなった。難易度の都合上グループワークの形態を取ることで理解を深める目的もあったが前回、前々回の成績がよかったために簡単にお許しが出た。しかし、名前がいつもより苦戦したのは言うまでもない。

「まあ、私これでも優秀なんで」

 どう?とでも言いたげに名前は顎に手を当てた。冬沢は平素の何を考えているのか分からない目で名前を見る。

「楽をしたいと言う割には自ら苦難の道を選ぶなんてね」
「苦難だなんて思ってないけどね。冬沢がいれば楽だけど、冬沢いなくても困るほどでもないし」

 楽をしたいのは事実。しかし怠けたいわけでもない。単純に1足す1が2になっただけだ。それが1でも別に困ることはない。冬沢が1かと聞かれたら少し困るが。1.7くらいありそう。

「冬沢こそ気にしなくてよくない? ほっといても私勝手にやるから問題ないし」
「どうやらそうらしい」
「そうなんです」

 名前は大仰に頷いてみせる。お互いに一人でも問題なくやれるのだ。だけど、一緒にやれば効率よく物事が進むからこうして時間を共有している。それでいい。
 他人に同情しない主義の名前であるが、冬沢は流石に別枠だ。人様の都合など知ったこっちゃないと考えていたものの、彼の抱えるものの多さには思わず手を出しそうになってしまう。教え子の指導、華桜会の仕事、実地研修、エトセトラエトセトラ。けれど、名前ができることなど何もないのが現実だ。せいぜい重石にならないことくらいしかできない。

「いやー、冬沢くんには感謝してもらいたいですね。こんなに優秀なペアと組めるんだから」

 言葉は軽い方がいい。深い意味もいらない。
 授業中、黒板に目を向ける怜悧な横顔を知っている。茶化してみれば意外にも呆れつつ言葉を返してくれることを知っている。目の前で課題に取り組んでいても、頭の端ではいつも別のことを考えていることを知っている。
 華桜会の主席には選ばれなかったことを知っている。
 知っているが知らないふりをする。そこは名前が思考を割いていい領分ではない。弁えろ。そんな権利はない。

「そうだな。苗字には感謝しているよ」

 冬沢の珍しい言葉に名前は動揺を何とか隠す。役者志望ならこれくらいできなくてはならない。

「急にどうしたの。びっくりするじゃん」
「感謝しろ、と自分で言ったんだろう」
「まあ、うん。言ったね」

 肯定しながら名前は書き終えたノートとテキストを閉じる。冬沢も同様に片付けを始めた。いつものように課題は終わった。おそらく、今回もSS評価を得られるだろう。
 自習室が閉まるまであと少しだけ時間がある。一足先に荷物をまとめた名前は冬沢から貰ったオレンジジュースの缶の蓋を開けた。喉が渇いていたので一気に飲み干すが固形成分が随分と底に残ってしまった。少しもったいない気分で缶の奥を覗く。

「缶の表示を読まずに飲むタイプだったとは意外だね」

 帰る支度の終わった冬沢が名前の様子を見て言う。

「意外? そう?」
「もう少し隙のないやつだと思っていたよ」
「優秀過ぎてもアレだしね。これくらい隙あってもいいでしょ」
「自分で言う台詞じゃないな」

 呆れたような冬沢の言葉は冷たくはなかった。
 名前は舌に残ったオレンジジュースの苦みを噛み締めるように笑う。
 残された課題はあといくつだっただろうか。それらも今までと同様にこなしていかなければならない。また、一人で課題に取り組まなければならない時が来るかもしれない。大丈夫。冬沢がいればとても助かるが、冬沢がいなくたって名前には問題ない。冬沢には冬沢にしかできないことがある。ただの授業のペアのことなんて気にしなくてもいいのだ。

 こんな些細なことしかできない自分が憎らしい。