俎上の愛
※共学
華桜会に入れば忙しくなる、とは聞いていたが想像以上に冬沢と会えない現実は名前の首を真綿でじわじわと締め付けていくようだった。もちろん、定期的に連絡は取り合っているし、たまに休日に出掛けることもあるがやはり頻度は減ってしまった。名前は名前で3年になってやるべきことが増え忙しく、その忙しさのさらに上を行くのが冬沢だった。
会いたい、声を聞きたい、触れたい。
そんな言葉を言うのは我儘な気がしてならない。物分かりのいい恋人でありたいという見栄もあった。
寂しさを誤魔化したくて冬沢にネクタイの交換を持ち掛けた。相手の私物を常に身に付けていれば少しはこの気持ちも収まるだろう、という希望的観測。
冬沢はあっさりと同意を示た。その場で自分と名前のネクタイを外し、自身のネクタイを名前の首に回し丁寧に結んだ。名前もそれに倣い、少し背伸びをしながら冬沢に自分のネクタイを結ぶ。
指輪の交換のようだ、と名前は思ったが口には出せなかった。あまりも陳腐な台詞で言葉にすれば何かが崩れてしまいそうだった。
その日から名前は制服を身に付ける時はいつも冬沢のネクタイを結ぶ。既製品だから外見で見分けはつかないが、それでもあの時冬沢が手渡してくれたことは紛れもない事実だ。
無意味にネクタイを触る時間が増えた。華桜館を遠目に見るとき、掲示板に張られた書類を見かけたとき、一人で帰路につくとき、通知のないスマートフォンを見るとき。
寂しくないわけではないが、手元に物理的な繋がりがあると思えば少しはましだ。
しばらく冬沢に会えない日々が過ぎた。それでも名前は“会いたい”も“声が聞きたい”とも言わずにメッセージアプリでのたわいのないやり取りだけでなんとか持て余す感情を制した。
朝から曇りの日だった。午後から雨が降る予報が出ているらしい。移動教室の際に友人達と廊下を歩いていると遠くに冬沢が見えて、やはり無意味にネクタイを触ってしまう。向こうもこちらに気が付いたのか視線がかち合う。名前はくしゃり、と滑らかな布地を握り締めてしまった。目があったが話しかける時間がない。笑いかければいいのにうまく笑えない。冬沢もすぐに視線を逸らしてしまった。
ほんの数秒のやり取りに絶望的な気分になる。
いつの間にこんなにも愛想もない人間になってしまったのだろう。皺がつくほどきつくネクタイを握り締めてもどうにもならないことだとわかっている。隣の友人の気遣うような声にも上の空で返してしまう。
授業も散々だった。きっと冬沢は今日も変わらず完璧に物事をこなしているだろうに、それに引き換え自分ときたらどうだ。簡単に会えないのはどうしようもないことなのに、それに感情が振り回され生活に影響まで出ている。人を好きでいるのはこんなにも苦しいものだっただろうか。
放課後になって重い鈍色の空からついに雨が降り始めた。
窓ガラスを滑り落ちる水滴を見詰め名前はそっと息を吐き出す。暗い天気が少しだけ救いだった。今の気分で快晴の空の下にいれば自分の薄暗い部分が余計に色濃く写し出されてしまう気がした。
人気のない図書館の奥の机でテキストを広げた名前は授業中頭に入ってこなかった部分を復習する。落ち着いて読み返せばなんてことはない。辛うじてノートはとっていたことが幸いした。遅れはすぐに取り戻さなくてはならない。立ち止まっている余裕など3年生の名前にはない。
「でも、冬沢の方が大変なんだろうしなぁ」
思わず口から出た言葉に名前は机に突っ伏した。
何をしていても冬沢に繋げてしまう自分の痛々しさがつらい。冬沢がいないと駄目になってしまう自身の弱さが嫌だった。もっと自立した人間でいたいのに。
机に伏したまま目を瞑ってみたが別に眠くはならなかった。眠っている間なら冬沢のことを考えずに済むと思ったがうまくいかない。
精神の平静を保とうとしばらくそうしていると遠くから足音が聞こえた。生徒か、巡回の先生か。
寝ているようにも見える姿はみっともないので、体を起こして再びテキストに視線を落とす。文字列を追って内容を頭に入れる。
しかし、名前は視界の隅に見知った姿を捉えた気がして顔を上げた。
「冬沢……」
どうしてここにいるのだろう。
数メートル先にいた冬沢は名前へと距離を詰める。
“何か用事?”と名前が聞く前に冬沢が口を開いた。
「四季を見かけなかったか」
その瞬間名前は理解した。華桜会主席が眠りの王様なことは同級生の中では周知の事実だ。同じく華桜会の一員である冬沢が彼を探し歩くのは不思議でもなんでもない。
「このあたりでは見てないかな」
名前は今度こそ笑みを浮かべて答える。大丈夫、笑えている。
冬沢は周囲を見回した後に小さく肩を竦める。
「ここにもいないか」
「他に心当たりはないの?」
「あと何ヵ所か見ていない場所がある。そこにいればいいんだが」
「そっか。早く見つかるといいね」
「そうなることを祈るよ」
そこで一度会話が止まる。
久しぶりに面と向かって話せたのだ。言いたいことはいくらでもあったが名前は何を言っていいのかわからないし、そもそも冬沢はある意味で仕事中だ。
つい、癖でネクタイを強く握り締めてしまった。
その様子を見た冬沢の顔から表情が抜け落ちる。
「随分と気に入ってくれたみたいだね」
「え、あー。……うん」
歯切れ悪く答えた名前はネクタイから慌てて手を離す。それに代わるように冬沢の手が名前の首に伸びる。長い指が結び目にかかった。名前は身を固くする。それに構うことなく冬沢は結び目を緩めると、シャツの襟からネクタイを引き抜いた。臙脂色のそれが冬沢の手に収まる。名前は立ち上がり奪われた大切なものに手を伸ばす。
しかし、伸ばされた手は冬沢に捕まれる。
「目の前に本物がいるのにか?」
恐る恐る視線を上げると蒼然とした笑みに見下ろされ動けなくなる。
「俺を想うあまりに苦しむお前を見るのは悪くない」
「っ、……悪趣味」
「だが、ただの物にこうして執着を向けられるのは面白くない」
そう言って冬沢はネクタイを床に落とすと空いた手を名前の腰に回しそのまま引き寄せる。
突然のことに名前はよろけつつも冬沢の胸のなかに収まった。思考が一瞬止まる。腰に回された手がゆっくりと背中へ動かされる。それだけのことなのに耐えきれずに冬沢にすがりつくようにシャツに指を立てる。
「ごめん。……冬沢、ごめん」
名前は謝るしかなかった。何が悪いのかも分からないし、本当に自分が悪いのかも分からないが謝罪の言葉しか出てこない。
「謝罪が欲しいわけじゃない」
「うん、ごめん」
上から溜息が落ちてくる。背中に回された手に力が入ったのがわかった。それに答えるように名前も遠慮がちに冬沢の首に手を回す。二人の距離はゼロになった。けれど名前はそれでも遠く感じてしまう。どんなに近付いたところで他人どうしの二人の境界が完全に溶け合うことはない。それがとてももどかしい。
「身も心も手に入れれば満足できると思っていた」
耳元で冬沢が囁くのを名前は黙って聞く。
「足りないんだ」
冬沢の手に籠る力がさらに強くなり名前は少しだけ息苦しさを感じたが拒絶はしない。大きく息を吸い込んで冬沢の匂いで肺を満たす。けれど足りない。
互いに無言になり雨音だけが響く。それすら二人の世界には邪魔だった。
本当に、人を好きでいるということは苦しいことばかりだ。