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どうにもならない君がいいんだって
※共学

「高嶺の花って感じだよね」



 華桜会主席のサインが必要な書類を片手に名前が会議室兼執務室に足を運び入れたところ、部屋の主はおらず代わりにその代行を務める男子生徒がいた。パソコンに向けていた視線が名前を捉えて要件を言うように促したので素直に従う。

「華桜会主席のサインが欲しかったんだけど。四季くんは、いない?」
「ああ、少し席を外している。戻り次第書かせるから書類は預かろう」

 入り口で立ち止まっていた名前は室内に一歩踏み出す。執務室であるが華桜会の会議室を兼ねた神聖な空間に入り込むのは少し勇気がいる。背筋が自然と伸びた。部屋の広さ高さの割に調度品は少ないため足音が嫌に響く。そして冬沢が見ているというのも余計に落ち着かない。円卓に近づくまでのほんの数秒がいやに長く感じる。

「これ、お願いします」

 ファイルから取り出した数枚の書類を名前は冬沢へと差し出した。それを片手で受け取った冬沢は文面に軽く目を通して傍らに置いた。

「確かに受け取ったよ」

 ようやく名前はほっと息をつく。何かしらの不備でもあって指摘されたらという不安は僅かだがあった。問題がないならなにより。
 これでやるべきことは終わった、と踵を返そうとした名前は少し離れた位置に積まれた紙の束とホッチキスに目を留めた。何部かはまとめられているがほとんどは手つかずの状態だ。ふと、思ったことをそのまま口に出す。

「あれ、やろうか?」
「気にするな」

 あっさりと断られる。よく考えてみれば出過ぎた申し出だった。
 しかし、常々思っていたことだが冬沢は働き過ぎな気がする。主席代行という立場は勿論忙しいのは当然だが、新しいプロジェクトや綾薙祭の諸々の準備に加え教え子の指導までしているのだから高校生の仕事量としては随分と逸脱している。
プリントをまとめてホッチキスで留めるなんて雑事に割かれる時間はとても無駄なようにも思える。
 名前は引き下がってみる。

「四季くんを待つついでじゃダメ?四季くんが戻ってきてサインくれたら私がそのまま書類持って帰れるから時間の無駄ないし」

 どうかな?となるべく気軽に言ってみる。気を遣っていると思わせては駄目だ。
 冬沢は少しだけ思案するように目を伏せると薄く笑みを浮かべた。

「なら任せよう。四季が戻る前に終わらなくても帰ってくれて構わない」
「さすがに途中で放置はしたくない、かな?」
「そうか。好きにするといい」

 お許しが出たようなので名前は紙の山に近づく。華桜会が座すべき椅子に座るのは憚られたので立ったままで作業をすることにする。すでに完成したものを参考に表裏と枚数を確認し角をきちんと合わせてから針で留める。ばちん、ばちん、と名前が紙に針を打ち込む合間に冬沢のタイピングの音が響いた。無言な二人の代わりに無機質なやり取りが行われる。
 この完璧主義者な同級生はやはりというべきか無駄口が嫌いらしい。名前も世間話をしようなどとは思わない。煩くすれば部屋から出て行けと言われてしまうだろう。
 作業の合間にちらりと冬沢に視線を向けた。
 きれいなひとだな、と思う。
 さぞ手触りがいいだろう髪は計算しつくされたアシンメトリーを形成し、無感情にも見える瞳は冬のような冷たさを帯びている。白皙の肌に落ちる影すら美しい。きっとこれからもっときれいになる。
 けれど、高校生である彼の少しあどけなさが残る容貌をこうして眺められるのは、今、この瞬間だけだと思うと数年後に彼を知るであろう第三者に優越感を抱く。あなたたちが知らない彼を私は知っている。たとえ、彼との接点がこの一瞬だけだとしても、その優位は揺るがない。
 ばかばかしい感情だと思う。名前は冬沢の何でもない。ただ、こうして事務的なやり取りを交わすに過ぎない同級生だ。これでは数年後に彼を知るであろう第三者と大差ない。けれど、そうであったとしても、何か残るもがあるはず、と願ってしまっていいのではないだろうか。

「苗字」

 作業に集中していた名前は名前を呼ばれ手を留めた。

「四季から返信が来た。もうすぐ戻るそうだ」

 そう言いながら冬沢はスマートフォンに視線を落としている。どうやら四季と連絡をとっていてくれたらしい。

「そっか。こっちももう少しで終わりそうだから丁度よかった」

 だいぶ攻略された紙の束は残された時間を嫌でも感じさせる。
 無言で互いに違う作業をしているだけなのにその時間が終わるのはとても惜しい。もう、こんな都合よく機会は巡ってこないだろう。何か、残るものはあるだろうか。
ばちん、と音を立て最後の書類がまとめられた。完成した資料を一つの山にして作業はすべて終わった。まだ、四季は帰ってこない。

「冬沢くん、終わったよ」
「ああ。ありがとう」

 そう言って名前を見た冬沢は僅かに眉をしかめた。その意味がつかめず名前は軽く首を傾げる。

「立ったまま作業していたのか」
「え?うん。さすがにここの椅子には座れないし」

 背もたれのある豪奢な椅子を見る。教室に溢れる簡素な造りのものとは質も、座るべき人間も違う。

「図々しいのか遠慮深いのか分からないな、君は」
「図々しいって……」
「華桜会でもないのにこの部屋に居座ろうとする人間のどこが図々しくないんだ」
「ええ……。冬沢くんが手伝ってもいいって許可してくれたのに」
「その前に申し出たのは苗字だろう」
「だって、普通そう言っちゃわない?」
「少なくとも俺は初めて言われたよ」

 ふ、と小さく冬沢は笑う。そこに込められた感情が分からない。嘲笑なのか、侮蔑なのか、それとも単純に好意的なものなのか。

「めんどくさいな、て思ったらはっきり言ってもらってよかったのに。私、回りくどい言い回しとか、行間読むとか得意じゃないから」
「それでよく役者になろうと思ったな」
「それはそれ、これはこれです」

 冬沢の言葉に少しだけムッとして名前は唇を尖らせる。しかし、すぐに笑い声をあげてしまう。冬沢は怪訝な表情を浮かべる。

「高嶺の花って感じだよね」
「意味がわからないな」
「行間読んで?」
「お粗末すぎて読む気も失せるよ」


 手の届かない高嶺の花に一番近づいているのはこの瞬間なのにその距離はあまりにも遠すぎた。けれど、高嶺の花を引き立てる背景の雑草になる程度の権利なら持っているらしかった。
 卒業後か、5年後か10年後か、もう一度このきれいなひとに会った時にまた図々しい申し出をしてあげよう。