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踊り場の影法師踏み散らして
※共学
 
 数少ない男女合同の実技授業である社交ダンスのペア表を確認した名前は胃が痛くなる思いでその文字列を見つめた。何度見返したところで書かれた名前が変わるわけもなく、“冬沢・苗字”という並びの重さに頭を抱えたくなる。
 名前も実技の成績は優秀なほうだ。これが別の生徒とのペアならば必要以上に気負うこともなくSS評価を目指して練習に励むことが出来ただろう。しかし、それが冬沢亮ともなると話は違う。中等部時代からトップの成績を修め続けている男がペアともなると目指すは当然、最優秀の評価。おまけにあのストイックさである。気楽に、と言う方が無茶だ。
 周囲のささやかな同情の視線を受けつつ名前はレッスンルームへと向かった。
 
 
 いつものレッスンシューズとは違う7センチの高さがあるパンプスは目線の高さも違う。そして、名前の身長は女子の平均のそれよりも高い。ペアとしてのバランスを考えて冬沢と名前が選ばれたのは必然と言えば必然だった。
 教師の指示によりペアとなった男女がフロアへと散らばる。
 名前の目前の冬沢はいつも通りの冷えた瞳で薄く笑みを浮かべている。下手なことをすれば死ぬなと確信した。

「よろしく。期待しているよ」
「ははは、ご期待にそえるよう努力します」
 
 各ペアが挨拶を終えたタイミングを見計らったように音楽がかかる。
 最初はホールドを組むところからだ。周囲のペアには僅かに躊躇いがある。思春期真っ盛りの男女がいきなり手を取り距離を詰めるのは精神的ハードルが高い。
 だが、冬沢は一切の躊躇いなく左手を差し出す。一方の名前も照れだとかそういうものを感じる余裕すらない。その手を取る以外の選択肢がなかった。差し出された冬沢の手に指を重ねると軽く握られたので名前も答えるようにそっと力を込める。ここまでで最初の三拍子。
 次の三拍子で冬沢の右手が名前の背中に回り、名前は冬沢の右腕に左手を添える。周囲よりワンテンポ早く形が完成した。
 ちらりと名前は冬沢を見上げる。しかし冬沢の視線は既に進む方向へと向いている。慌てて名前も進行方向へと顔を向けた。
 そして、冬沢のリードでワルツは始まる。
 ナチュラルターン、アウトサイドチェンジ、スピンターン、シャッセ、リバースターン。
 三拍子のリズムでステップを踏む。波の動きをイメージする。滑らかに、優雅に。ワルツは円舞曲と呼ばれるだけあって回転の動作が多い。足の爪先から指先まで体の使い方を意識しなければ洗練されたダンスは踊れない。慣れない踵の高い靴は確実に名前の神経を磨り減らすがそれを表情には出さない。ペアの男子のように涼しい顔で脚を動かす。
 
 うわ、やっぱりうまいな。
 
 とにかく冬沢のリードは踊りやすい。彼の実力を痛感した名前はさらに気を引き締めた。無様なステップなど踏めるわけがない。
 
「腕が下がってる」
 
 飛んできた冬沢の言葉に名前は姿勢を改める。
 脚さばき、手の位置、視線の向き、どれも妥協はできない。
 
 名前は過去トップクラスと言ってもいいほどの集中力を持続させなんとか授業を終える。最終授業での試験で評価を経て成績が決まるので、今後あと何回か授業が残っていると思うと少しだけ憂鬱な気分になる。
 実技は得意で好きでもあるが、冬沢がペアであるというプレッシャーは想像以上に重い。決して悪い人でないのは分かっている。だが、あの威圧感というかな冷淡さを帯びた雰囲気というのはどうしても身を固くさせる。だからといって萎縮してしまえばお粗末なパフォーマンスをするはめになってしまうので努めて平常心でいなければならない。
 冬沢の実力と名前の努力のおかげで周囲の生徒や教師からは“流石だ”という評価を貰ったものの素直には喜び難い。少し、窮屈だ。ペアに上下関係はなく同等のはずなのに自分ばかりがあまりにも気を遣いすぎてはいないだろうか?本当に自分は最優秀の評価を得るために十分なことをしているのだろうか?
 
 などど悶々と考え込みながら、本日の練習を終えた名前は稽古棟を後にする。課題のワルツへの妙な焦りが消えずギリギリまで残って自主練をしていたが、それでもやはり納得はできなかった。
 すっかり日が落ち、寮へ続く道にも生徒の姿は見られないのをいいことに、名前はシャドー練習の要領でその場でステップを踏む。有名なクラシックのリズムを口ずさみながらくるりとターン。
 目の前に理想的な相手がいると仮定する。踊っていてズレがなくリードがスムーズで組んでいても窮屈ではない。冬の朝のような静謐な瞳。背中に回る大きな手。温度の低い声。
 
 いや、違うだろ。と、名前は足を止めた。
 
 これではあまりにも、あまりにも冬沢を意識し過ぎていている。これはよくない。本当によくない。

「往来の真ん中で何をしているんだ」
 
 背後からかかった声に心臓が止まるかと思った。名前がゆっくりと振り返ると、街頭に照らされた冬沢が立っていた。

「えっと、いつからそこに?」
「君がナチュラルターンを始めたあたりからかな」
 
 つまり最初からだ。
 
「急に踊り始めたかと思えば突然立ち止まってどうしたのかと思ったよ」
「見られてたかぁ。いや、どうしても課題のことが頭から離れなくて」
「熱心なのはいいけれど、こうして邪魔になるような行動は感心しないね」
「おっしゃる通りです」
 
 冬沢の正論に名前は頷くしかない。
 こうも的確に答えを返され続けるとダンスでも全てを委ねてしまった方がいいのではないかと思ってしまう。
 
「課題が不安なら今度一緒に自主練でもしようか」
「ほんとに?」
「ああ。そうしてくれるとこちらとしてもありがたいからね」
「冬沢君に付き合わさせてるみたいにならない?」
「何故そんなに遠慮する?ペアだから当然だろう」

 ようやく名前は胸のつっかえが取れた気がした。
 少なくとも相手は自分のことを同等の立ち位置だと考えていたのに、それができていないのは自分だけだった。わざわざ言ってくれないと納得できなかったのは臆病過ぎたかもしれない。思わず口元に笑みが浮かぶ。

「ねえ、1回だけ踊ってくれない?」
「さっきの話を聞いてなかったか?」
「ちょっとだけでいいから!そうしたら今日は納得して帰れそう」
 
 冬沢は小さく溜息を吐くと、荷物をおろす。

「仕方がない。ペアの頼みとあってはね」

 そう言いながら差し出された左手に名前は右手を重ねる。指先からぬるい体温が伝わり、自分の熱を分け与えるようにそっと握り返す。背中に回された右手は全然窮屈ではない。肩の力を抜く。
 冬沢のリードで一歩踏み出し、ターン。制服の裾が動きに合わせてひらりと舞う。練習着よりは動きにくいはずなのに不快ではない。踵の低い靴は安定を与えてくれる。
 廻る、廻る。
 リズムを口ずさむ。ついつい笑ってしまう。
 
 ああ、楽しい。
 
「授業でもそれくらい思いきってくれ」
「うん、そうする」
「パートナーである君を引き立てるのが俺の役目だ。是非、引き立て甲斐のある花でいて欲しいね」
「あはは、ご期待にそえるよう努力します」
 
 ふと名前は顔を上げる。冬沢が見下ろす視線とぶつかった。
 そこで初めて、名前はワルツを踊る冬沢の顔を見た。