小説(スタミュ) | ナノ

2学期の話(9)

 客席の後方にある調整室からはホールが一望できる。座席は全て生徒で埋められ、決して小さくはないざわめきがガラス越しでも感じることができた。
 間もなく、舞台の幕が開く。
 誉は調整室の窓からホールを見下ろす。演者でもないのに心臓がいつもより早く鼓動を打っているのは仕方がないだろう。プレ公演ではあるが大事なステージであることに変わりはない。この公演を成功させなければ本番も上手くいかない、くらいの気概が必要だった。

「時間だね」

 誉がそう告げれば周囲のスタッフ達が動き始めた。開幕のブザーが鳴り、照明の光が徐々に落とされていく。
 その時、誉の耳は何か低い音を拾う。聞き覚えがある音だ。ちらりと周りの様子を伺うと何人かが同様に気が付いたらしく各々制服のポケットを抑えていた。そう、これはスマートフォンのバイブレーションではないか。
 おかしい。何かが、起きている。誉の直感が訴えかける。確証なんてない。けれど、頭の隅でけたたましく警報が鳴っている。
 だが、ステージの幕はすでに上がってしまった。もはや止めることはできない。入夏の作り上げた曲が鳴り響く。ステージに淡い光が灯り、それに照らし出されたチーム柊の5人が朗々と美しい旋律を紡ぐ。素晴らしいパフォーマンスだ。
 けれど、さっきまでとは別種の嫌なテンポで心臓が早鐘を打つように動いているのを感じる。
 何も起こらなければいい。こんなもの杞憂であればいい。

 しかし、それはあっさりと裏切られた。

 メロディーが転換し、照明が切り替わる瞬間、舞台の両脇から黒い衣装を纏った人影が突如現れた。そして白い衣装を纏うチーム柊へと合流するとステップを刻み始める。
 調整室の中に困惑と驚きの声が上がった。
 誉は窓ガラスにぎりぎりまで近づき、目を凝らしてステージを見た。黒い人影は全部で9つ。間違いない、あの9人だと確信する。

「雨宮……」

 背後から動揺を隠しきれない様子でスタッフの声がかかり誉はそちらを見た。そして感情を抑え、ゆっくりと口を開く。

「ステージはこのまま続行。私は下に降りて様子見てくるから後はお願いしていい?」
「あ、ああ」

 スタッフが頷くのを確認してから誉は足早に調整室を出る。そしていつもより雑に乱暴に扉を閉めると一気に駆け出した。廊下を抜け、階段を下る最中にもホールから漏れ出たくぐもった音が誉の耳に届く。
 誉の混乱は解けない。
 何故だ。どうしてこんなことが起きている。セレモニー用の楽曲や振り付けは関係者以外には秘匿されていたはずだ。どこでどうやって知ったというのか。それに、14人全員で合わす時間などなかったというのに。これがチーム鳳の、2年のポテンシャルだとでもいうのか。

「ああ!もう!」

 息が苦しいのも気にせず誉は叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
 あの9人が乱入してきた瞬間、大げさでもなんでもなく心臓が止まるかと思った。指先は今でも僅かに震えている。そして、全身の体温が下がったような気さえするのに頭には熱い血が上り、ふつふつと何か湧き上がるものがある。

 あのステージは、彼らが1から作り上げてきたものだ。
 曲も演出もすべてを随分と前から入念に準備してきた。多くの人間を説き伏せてもきた。
 失敗がないように、必ず成功させるために注意を払ってきた。
 なのに、どうして、それを壊すような真似をする!

 乱れた呼吸を整えることもなく誉はホールの扉を少しだけ開けるとそこに身を滑り込ませる。そして肩で荒い息をしながら舞台へと視線を向けた。
その瞬間、音と光の奔流に飲み込まれた。
 音楽が鼓膜どころか全身を震わせる。目に痛いほどに眩しい光景だった。
 誉の中で限界まで膨らんでいた感情が穴の開いてしまったようにみるみるうちに萎んでいく。それに伴って、熱気とは裏腹に頭が少しずつ冷めていった。冷静になった思考で最後列から客席を見渡す。ああ、輝いているのは14人の演者だけではなかった。生徒たちがサイリウムのようにスマートフォンの光を振っている。緑、赤、青、黄、紫。いっそ、幻想的ですらある。舞台の上の演者と観客とで一つのステージが生まれたのだ。
 なんて、眩しすぎるのだろう。

 最後のフレーズが歌い終わると客席からは惜しみない拍手と歓声が上がる。スタンディングオベーション。それはなかなか鳴り止まらない。嵐のようだ。
 舞台の上では14人が1列に並び揃って挨拶を始める。
 誉は、その場から動くことができなかった。頭の中をぐるぐると意見が巡る。
こんな強引な手段を認めるわけにはいかない。しかし、14人のパフォーマンスは観客の心を掴んでしまった。9人を無下に扱えば生徒からの不満は避けられない。けれどセレモニーの目的を考慮した場合彼らのパフォーマンスのクオリティは満足できるラインに到達していない。でもあの熱意は本物で。だけどそれだけではどうしようもなくて。

「入夏先輩、春日野先輩、千秋先輩、冬沢先輩、雨宮先輩!」

 舞台の上から名前が呼ばれ、誉はハッとなってそちらを見た。澄んだ声の主は星谷だ。

「カンパニー全員でやらせてください!お願いします!」

 14の頭が同時に下がる。けれど、

「却下だ」

 低く、冷たい声がすべてを拒絶した。それに誉は少しだけ安堵を覚える。
 冬沢は14人でのステージを認められない理由を理路整然と1つずつ語っていった。観客は星谷達に大きく心を動かされ、彼らに期待をし始めている。けれど冬沢は主張を変えることはなかった。ただの熱量だけでは動かせないものがあるのだと言葉にせず語っていく。
 だが、星谷達も譲らない。観客すら巻き込んで最高のステージを作り上げるのだと高らかに宣言する。
 これでは完全に平行線だ。そこで、誉はようやく一歩踏み出す。実行委員長としての役目を果たさなくてはならない。全ては綾薙祭の成功のため。そのためならどんな役割であっても背負うしかない。

 その時、背後の扉が開いた音がして誉は振り返った。誰かがホールに入ってくる。
 癖のついた赤銅色の髪と、たなびく燕尾。

「四季、くん……」

 呆然と誉はその名を呼んだ。何を、しようとしているのか。あの、燕尾を滅多に着ない首席が自らそれを纏っている。強い意志の籠った瞳が誉を捉えた。口元は僅かに笑っていた。

「悪いな、雨宮。迷惑かける」

 その言葉だけで誉は四季が今から行おうとしていることを理解してしまった。
 四季が客席の間の階段を下りていく。彼の存在に気が付いた生徒が騒めき始め、それは波のように徐々に広がっていく。
誉は後ろに数歩よろめいて壁に背をつけた。なんてことだ。ステージジャックなんて霞むほどの事態が起ころうとしている。

「なんで……」

 なんで、今なのだ。なんで、そう思ってしまったのだ。なんで、行動を起こそうとしてしまったのだ。なんで、なんで、なんで、なんで。
 困惑、不安、焦燥、やり切れなさ。暗い感情が重く圧し掛かる。


「話だけなら聞いてやる」

 冬沢の「解散」の声を遮るようにして放たれた言葉は確実に空気を変える。

 眠れる王がついに目を覚ました。