小説(スタミュ) | ナノ

風邪をひいた話

※綾薙祭後

 誉はめったに体調を崩さない健康体である。体調管理ができてこそ一人前、という優等生としてのプライドもあったのも事実で、皆勤賞を取ることも珍しくない。
 しかし、今日は明らかに目覚めた瞬間から調子がおかしかった。なんとなく体は重いし、いつもは美味しく食べる朝食もなんだか味が感じられない。母親にはお見通しのようで体温計を渡された。計ってみると微熱とも平熱ともいえるような判断に迷う微妙な温度が表示される。「最近は色々あったし疲れが溜まってたんじゃない?休む?」と、提案を受けたが誉は首を横に振る。幸いにも今日は体育もないし、部活は引継ぎを終えて引退した身だ。授業だけ受けてさっさと帰ってくればいい。そうすれば明日は休日だしゆっくりと休める。
 無理せず辛かったら早退すること、としっかり釘を刺され、ついでにタクシー代を渡されて誉は家を出た。


 誉の楽観など嘲笑うように体調は悪化の一途を辿る。午前の授業を終えて昼休みに突入したあたりから寒気を覚えるようになった。指先は冷えているのに首元や額を触ると熱い。明らかに体温が変だ、と気が付いたころにはもう遅かった。座って聞いているだけならなんともないだろうと思っていた授業が想像以上にきついし集中もできない。そして実にタイミングが悪いことに広報部の後輩から相談を受けることになってしまう。おまけに華桜会へと書類を届ける仕事まで頼まれた。普段はこんなことはないのだが今日はともかくタイミングが悪いとしか言いようがない。後輩を責めるつもりなど全くない。誉自身も昨年は引退した先輩を何かと頼ってはいた。今年になって自分がそちら側になってしまったということだ。

 校舎から華桜館までの距離がこんなにも遠く感じるのは初めてだった。さっさと渡してさっさと帰ろう。そう決意して誉は執務室の扉をノックする。中に入れば冬沢が怪訝そうな表情を浮かべた。誉は先に口を開く。

「ちょっと頼まれて代わりに書類持ってきただけだから」

 一歩踏み出す足が重いが、それでもなるべくいつもと同じように歩く。鞄から取り出したファイルごと冬沢に手渡したところで足元が少しふらついた。だが体のバランスを崩すほどでもない。しかし冬沢は受け取ったファイルをテーブルの上に置くと立ち上がって誉の腕を片手で掴んで支える。反動でデスクチェアがテーブルにぶつかった。冬沢は誉を見下ろし眉をひそめる。

「お前……」

 腕をつかんでいないほうの手が誉の額に当てられた。低い体温が心地よくて誉は小さく息を吐きだす。熱のせいで潤む眼球で冬沢を見上げればあまり機嫌は良くなさそうで誉は距離をとろうと身を捩る。

「熱、あるから。風邪でうつしたら悪いし」

 そう言って一歩下がろうとしたが腕を掴む手は離れない。引きはがそうとしたが力の入らない手ではどうにもならなかったのですぐに諦めた。

「何故こんな状態で休まないんだ」
「朝はそんなに体調悪くなかったし」
「帰りは?」
「タクシー呼ぶ」

 冬沢は大きくため息をつくと誉の背後へと視線を向けた。鈍くなった思考のままその誉もそれに倣う。

「少し休んで待ってろ。外まで送る」

 ソファの位置を確認した誉は再びぼんやりと冬沢を見た。いつもの澄ました表情とは違う少しだけ怒ったような不機嫌な表情には心当たりがある。
 ああ、心配してくれているんだ。
 熱のせいでぼーっとする頭でもそれはわかった。冬沢の言葉に素直に「うん」と頷いた誉は鞄を抱いてソファに座る。その様子を確認した冬沢は再びデスクチェアにつくと仕事を再開した。
 パソコンのキーボードを打つ規則的な音といつもより高い体温は誉の眠気を誘うには十分だった。重たい体はすぐにソファに沈む。目が熱くてじわじわと痛むので、それを和らげるために瞼を閉じた。

 ふと、意識が浮上した。自分が眠っていたということに気が付くのに少し時間がかかってしまった。もぞもぞと体を起こすと肩から何か落ちる。

「もう少しだけ待っていてくれるか」

 冬沢は誉を見ずにそう言った。

「うん」

 熱で滲む視界に映る冬沢の姿に誉は首を傾げる。違和感にはすぐに気が付いた。燕尾を着ていないのだ。シャツとベストの軽装姿の彼は珍しく、うつくしく伸びた背中のラインを思わず誉はみつめる。
 それにしても燕尾はどこへいったのだろう。なんとなく誉は視線を下に落とす。あった。さっき体を起こした時に滑り落ちたものこそ冬沢の燕尾だった。一般生徒が着るジャケットよりも丈の長いそれは誉の体を覆うには十分な面積がある。体調を崩して眠りこけてしまった誉に対する冬沢なりの気づかいに何だが余計に思考が混乱する。だが、好意には甘えることにする。もう一度ソファに体を寝かせると肩まで燕尾を引き上げた。自分のものではない匂いがするのは落ち着かないはずなのに不思議と心は穏やかだ。
 眠気はもう引いてしまったが座っているよりも寝ている方が楽だ。しばらくぼうっと天井を見上げていると視界に冬沢の顔が入った。

「ふゆさわ」

 自分でも驚くほどの気の抜けた声が出て、思ったより弱っていたらしいとようやく自覚する。浮ついた意識のまま燕尾から手を出して伸ばせば冬沢に掴まれた。指先を軽く握られたので代わりに冬沢の手を自由な親指で撫でてみる。白くてひんやりとして滑らかな肌だ。

「きれい」

 思ったことがそのまま口から出てしまうのはたぶん熱のせいだろう。誉は繋がったままの手をひっぱるが冬沢からの抵抗はなかった。そのまま自分の額に冬沢の手の甲を当てる。

「熱いな」
「手、つめたくてきもちいい」
「お前が熱すぎるんだ」
「そっか」

 ふわふわとした回答しかできない誉を見下ろす冬沢の表情は笑ってはいないが不機嫌というわけでもない。無表情の中に少しだけ憂いがにじんでいる。憂いは人をうつくしく見せると以前どこかで聞いたことを思い出した。全くもってその通りだと誉は内心大きく頷く。というか、目の前の男にそんな顔させているのは自分ではないかと誉の中の冷静な部分が囁いた。何だかんだで中等部時代からの付き合いの同級生が目の前で弱り切っていたらそういう反応にもなるだろう。

「ごめんね」

 そう言って誉は繋いだ手の力を抜いたが、冬沢は逆に握り直す。

「謝らないでくれ」
「うーん。じゃあ、ありがとう?」
「ああ」

 額に当たる冬沢の手は誉の体温が移りすっかり温くなってしまった。けれど別に構わなかった。きっと、冷を求めていたわけじゃないし、恥ずかしい話だが冬沢もわかっていてそうさせてくれているのだろう。体調が治り正気に戻った時のことは今は考えないでおくのが懸命か。
 ぼそぼそととりとめのない話を続ける。中身なんてないようなものだった。けれど、早く起き上がって帰るのが一番だと分かっていてもどうしてもずるずるとこの状況を引っ張ってしまい抜け出せない。しかし、冬沢も冬沢だ。病人相手でも容赦なくいつもの調子で「早く帰ったほうがいいんじゃないのか?」とでも言ってくれたらいいのにと誉は責任転嫁する。

「雨宮」
「なあに」
「帰れそうか」
「……もう少しこのままでもいい?」
「いいよ」

 あまり聞いたことのないような柔らかい声だった。なんだか胸が締め付けられるように疼き、目の奥も熱くなる。けれど、熱で浮かされた思考では自分の感情を理解することすら困難だった。これも全部熱のせいだということにしておこう。その答えを出すにはまだ早すぎるのだから。