▼ やさしさばかりを水葬して

私は小さな公園の錆びついたブランコに腰を下ろした。大分低い位置にあるそれは、高校卒業を間近に控えた私にとって小さすぎる。
手袋もしていない手で鎖の部分を掴んだら、存外冷たいので驚いてしまった。痛いほどの冷たさに、自分が今冬の真っ只中にいることを再認識させられる。私は自分の熱が鉄の鎖に吸い取られてしまったような気がした。
すっかりかじかんだ手をこすり合わせてみても、一向に温かくならない。自分の手だというのに感覚すら曖昧になっていることに気づいた。私は意味がないのは百も承知でひたすら指先をこすり合わせる。
はあと吐息をかけたのが何度目か分からなくなった頃、公園の入口に見覚えのある人影を認めた。その大きな人影は謝るようにチョイと片手をあげて近寄ってくる。そうして私の目の前で立ち止まると、大げさにため息を零した。

「お前はまたマフラーもしないで」

風邪をひいても知らないからな。そう言いながら彼は自分の巻いていたマフラーを外して、そっと私の首に巻き直した。彼はもはや挨拶のようなその言葉達を飽きずに会う度繰り返す。私を二重にも三重にもぐるぐる巻きにし、満足そうに鼻を鳴らした人影、もとい澤村大地は、スポーツマンらしからぬ緩慢な動作で隣のブランコへと腰掛けた。
普通よりも大柄な彼の重みに耐えかねたブランコは、たまらずギィと軋んだ音をたてる。私はブランコに同情しながら、やけに窮屈そうにしている澤村くんに視線を向けた。

澤村くんはマフラーを私に預けていても平気そうな顔をしていた。寒さなんてちっとも感じていないような顔で白い息を吐き出し背を丸める。膝に肘をついて前を見つめる澤村くんに冷点はないのだろうか。いまだ彼の体温が残るマフラーを鼻まであげながら、馬鹿げたことを考えた。

こうやって私が彼を呼び出したときや、滅多にないものの彼が私を呼び出したとき。そして珍しく彼の部活が休みで一緒に帰るとき。彼はいつも私の心もとない首元へ澤村くんのマフラーを巻きつける。まるで何かを包み隠そうとするように、丹念に。全く同じことを反復する私達は、壊れたラジカセみたいだ。
しかしその錆びついた習慣も今年で三年目。澤村くんは毎度私に小言をぶつけるけれど、マフラーをしてこいとは言わない。だからこの三年間澤村くんのマフラーは私の首へと巻かれ続けている。
もしや私は家に忘れてきた自分のマフラーよりも、澤村くんのマフラーを使うことの方が多いんじゃなかろうか。今年の冬もほとんど出番のなかった私のマフラーを思い浮かべた。新品同然のマフラーはデザインよりも触り心地で選んだものだったが、使わないなら触り心地も何もない。澤村くんのマフラーは少しちくちくしていて、あたたかくて、お日さまの匂いがする。


マフラーの下でそっと吐いたため息が、やけに大きく感じられた。今朝方まで降り続いた雪が街をしんと静まらせている。静寂がやけにうるさい気がして、落ち着かなくなった。
私はその静寂の原因に気づく。昼時だからか分からないけれど、土曜にも関わらず公園にひと気がないためだ。本来ならあどけない笑い声で充満しているはずの公園にいるのは、ブランコに座る育ちすぎた二人組だけ。あまりにも辺りが静かすぎるのでまだ街が眠っているような気さえした。
その静けさを破って、隣の彼は口を開く。

「今頃みんなセンター試験受けてるんだよな」

澤村くんはぽつりとそう言って、ブランコを小さく揺らした。
私は返事をする代わりに小さく鼻をすすった。澤村くんはすんと鼻を鳴らした私を見咎めると、今度は手袋も投げて寄越す。
恐る恐るその手袋にかじかんだ指先を入れる。たった今澤村くんの手元から離れた手袋はあたたかかった。私が大人しくそれを両手にはめたのを確認し、澤村くんはまたブランコを揺らしていた。

私はそんな澤村くんの横顔を見て、今頃必死で問題と格闘しているのだろう同級生達の様子を思い浮かべようとする。けれど推薦で早々と合格を決めてしまった私にとって、それはどうしても他人事としか思えず、現実味のない風景としてだけ浮かんでくる。同じく推薦組である澤村くんの言う"みんな"も、そういう自分と隔絶された事象としての"みんな"なのだろうか。
私は少しだけ気になったけれど、わざわざ尋ねるのも面倒くさくなって、口をつぐむ。私は私が澤村くんを呼び出したというのに、彼が来てから一言も発しないでいた。澤村くんはそんな事にはこれっぽっちも頓着していないような顔で錆びついたブランコをギイギイ鳴らす。

同級生が試験を受けているこの日に澤村くんを呼び出す私は大概だけれど。電話一本で律儀に公園までやってくる澤村くんも大概だ。
私はつい二時間ほど前にした電話を思い出す。「十一時ね」澤村くんが電話に出るなり一言だけそう告げた私に、澤村くんは間をおかず分かったと返した。
どこでとかなんでとか、そんな類のことはほんの僅かも口に出さなかった。

「みんながんばってんだろうなあ」

澤村くんは古ぼけたブランコの上で呟く。ひとりごとみたいにそっと。私の返事なんかこれっぽっちも欲していないみたいに、息をするように呟く。
私は口を閉ざしたまま雪をけった。

私達は何かというとここへ来る。
一番最近明確な理由があってここに来たのは、彼の最後の試合が終わったときだろう。
澤村くんに呼び出された私が遅れて公園へと入ったら、澤村くんは薄暗くなって来た中で一人ブランコに腰掛けていた。膝に肘をのせ、背中を丸めて。組んだ指に額を乗せる彼は、何かに祈っているようで。私は声もかけず黙って隣のブランコへ座った。
それでも私が来たのに気づいた澤村くんは、組んでいた指をとき、首に乱雑に巻かれていたマフラーもといて、私へ巻きつけた。
顔をあげた澤村くんは私の予想に反して、目こそ真っ赤に充血していたものの、さっぱりした表情でいた。

あの日澤村くんがなぜあんな表情をしていたかは分からない。
自身の求める次元に到達できたのか、はたまた諦めの笑顔だったのか。もしかしたらやっと部長という責務から解放されたなんて理由かもしれない。私には現役を退く選手の気持ちなんて想像するのさえ憚られるが、とにかくあの日の澤村くんはからりとした笑顔を浮かべ私をマフラーでぐるぐる巻きにした。


私はちらりと隣を見る。私にマフラーと手袋を渡した澤村くんは、ブランコの足元に積もった雪を踏み固めて遊んでいた。私は澤村くんから視線を外し、私の手より二回りは大きい手袋の指をひっぱって遊んだ。
そうやって、お互い話題を探すことも放棄したまま、いつの間にか正午が近づく。日は頭の上まで昇ってきた。一月半ばとは思えない陽気が公園を包む。私のかじかんでいた指先はもうとっくに温まっている。鉄棒やすべり台なんかに積もっていた雪が、温み始めているような気がした。澤村くんはその陽気に欠伸を誘われたらしかった。

「天気いいな」
「うん」
「でも明日はまた雪降るって」
「そうなんだ」

澤村くんは私が返事をしたのに驚いたようだった。けれどもそんな事はおくびにも出さず話を続けた。
澤村くんはよく明日の話をする。私は先のことを話すのなんて嫌いなのに。気づいていないのかわざとなのか、澤村くんはよく明日の話をする。
鼻歌さえ聞こえて来そうな様子で陽気を享受する隣の彼は、本当に分かっているのだろうか。

雪がとけたら、春になる。

この分厚い雪がすっかり溶けたら。灰色の雪雲が空を覆うことがなくなったら。春になる。
雪は氷の粒から水へと状態変化を起こして。そうやって融解してできた雪解け水は、全てを流してしまうのだろう。
この愛しい冷たさも、あたたかかった雪の日も。そうして全てが押し流された後に生じる春では、わざとマフラーを部屋のドアノブにかけ忘れてくる意味もなくなる。
この白い雪は、やがて春へと変貌する。

澤村くんは昼の日差しに照らされることを楽しんでいた。私はこの陽気を憎らしく思うけれど。澤村くんは春を渇望しているのかもしれない。
きっと澤村くんは、私が今日彼を呼びつけた意図を感じ取っている。けれどそれを口にせずにただブランコを揺らす。
澤村くんというのは、それほどに賢くて、またやさしすぎる人なのだ。

私は一度だけ、なぜ澤村くんは私を構ってくれるのか尋ねた事がある。あの時確か澤村くんは、少し笑って「俺が一緒にいたいからだよ」と嘘をついた。私が私である必要を創り出そうと嘘をついた。
そしてその嘘を本当にするため、こうやって黙ってそばについていてくれる。あたたかな眼差しで私を見ているフリをする。

澤村くんというのは、それほどまでにやさしすぎる人なのだ。


私はふっと足元の雪を見つめた。
澤村くんの周りの雪は踏み固められてぎゅうぎゅうになっているけれど、私の周りの雪は降り積もったそのままでいる。日が差した雪はきめ細やかに輝いて眩しい。

「天気いいね」
「おう」
「あったかいね」
「春みたいだ」
「うれしい?」
「うん、嬉しい」

澤村くんは宙空を見つめたまま返事をした。澤村くんの睫毛に陽光が反射してきらりと光った。嬉しいのか。そっか。

雪がとけたら、春になる。
澤村くんのやさしい嘘も視線も全て、雪解け水に流されてしまう。
三年間同じ学び舎に通い続けた同級生はもれなく自分の新たな進路へと歩を進め、もう毎日顔を合わせることはなくなる。澤村くんだって例外ではない。きっともう理由があってもこの公園で会うことはないだろう。
澤村くんは澤村くんの人生を歩むことに戻る。私は今度こそ本当に私の必要を探さなければいけない。
ブランコがギイと悲鳴をあげる。

澤村くんのやさしさを全て、この冬の日に閉じ込めてしまえるならいいのに。私は漠然とそう思う。
だけどやっぱり雪は溶けて、澤村くんのやさしさは雪解け水に流され沈んで行くだろう。産声をあげる春は澤村くんをさらって行ってしまう。
そうしてもう嘘をつく必要のなくなった澤村くんは、停滞する今日ではなく激動する明日へと向かって生きる。

私は不意に地面を蹴りブランコから飛びおりて、分厚い雪の絨毯のうえに立つ。無人になったブランコはギイギイ恨めしそうに揺れていた。私は雪を踏みしめながら澤村くんの正面に出る。澤村くんは私の行動に怪訝な顔をする。
どうしたと呟く澤村くんの顔をよく覚えておこうと、穴があきそうなくらいに見つめた。その顔を網膜に焼き付けようと目を閉じる。それから静かにマフラーに手をかけて、ゆっくりとそれを自分の首から外す。少しちくちくするマフラーが完全に首元から離れたとき、やけにスースーするのを感じた。一度あたたかさを知ってしまうと、それがなかったときの寒さをうっかり忘れてしまう。
私は澤村くんが何も言わないうちにマフラーを巻きつける。彼がしてくれたように二重にも三重にも。
彼は私がマフラーを巻き終えたとき、陽光の映り込む瞳で私を見上げた。私はその瞳が寂しそうに輝くのを見ながら手袋も外して手渡す。澤村くんその手袋をはめようとはしない。日差しはあたたかく公園を包む。公園の面する道路は人通りが増え、公園には昼食を終えたらしい子ども達がかけこんできた。

「もう、さむくないよ」

前だけをひたと見据えて進む春からの澤村くんが目に浮かぶ。
まだ冬の澤村くんは少しだけうつむいていた。そのまま返事をしないでブランコをギイと軋ませる。私はその丸めた背中を見て微笑む。
澤村くんの生きる明日はきっと、美しいのでしょう。

そこに私がいなくても、きっと。

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