▼ 忘れないで、この世界は美しい

熱気に包まれる体育館の中、わたしは応援席からそれを眺めていた。
青と白のユニホームを着たその人は、くるりと回したボールをまるで祈るように額へと掲げる。そうして、ゆっくりと顔を上げたとき、その目には勝利への恐ろしいほどの飢えと闘志が見えた。まだ幼さを残した美しい顔に似合わない獰猛さにぞくりと肌が泡立つ。
ふわり、とボールが高く舞い上がる。瞬間、すべての喧騒が遠ざかる。聞こえるのは、きゅっきゅっとかの人の軽快な助走ステップ音だけ。右足を軸に深く沈み、伸び上がる身体。勢いよく振り下ろされた手によって打ち落とされたサーブはまるで空気を切り裂くように鋭い。ダンッ!!と重い音をたて相手のコートに落ちたボール。一瞬の静寂のあと、わぁっと盛り上がる体育館。
その一連の動作がまるでスローモーションのようにわたしの瞳に焼き付いた。
あぁ、見てしまった。それが一番初めの感想。わたしは、見てしまった。その美しい姿を。人が翔ぶ姿を。そして、ぎゅう、と掴まれた心臓は、きっともう彼を知る以前には戻れないと叫んでいた。

***

ふわり、ふわりと花のように空を舞う雪を暖かな教室の窓から眺めていた。
あの心臓ごと掴まれた夏から三年。それからさらに二つの季節が巡り、冬がきた。凍てつき、すべてのものが眠る季節だ。

名前、と名を呼ばれて振り返ると、かつての面影を残しつつも立派な青年へと成長した彼が立っていた。華やかな雰囲気はますます磨きがかかり、変わらず人を惹きつける。今だってクラスの女の子たちの視線が自然と彼に吸い寄せられている。それを横目に彼へと視線を合わせる。

「一緒に帰ろう」

榛色した瞳をやわらかに細め、歌うようにそう口にする彼を見て、小さく頷いた。


外に出ると、ひんやりとした冷気が頬を撫でる。東北の冬は寒い。宮城は比較的に雪が少ないとはいっても、冬日が多く、今も目の前には銀世界が広がっていた。正門を出たところで、どちらからともなく自然に繋がれた手。過ぎ行く時間を惜しむようにゆっくりと二人並んで歩く。

「徹くん」

前を向いたまま名前を呼ぶと、なあに?と静かに笑う気配がする。
とおる。その三文字はこの冬空に澄んだ響きを残して溶けた。まっすぐに前だけを見つめて進み続ける、この人に似合うとてもいい名前だ。

「徹くん」

もう一度、彼の名前を呼ぶ。徹にはつらぬきとおす、という意味がある。だから、彼がいる場所はここではない。きっと、もっと広い舞台が用意されている。だって彼は神様に愛されているから。
もし、徹くん本人にそのことを言えば、きっと力いっぱい否定して、神様に愛されてるっていうのはね、ウシワカちゃんとかとびおとか、ああいう天才のことを言うんだよ、と苦々しく笑うのだろう。それでも、わたしはその手に、その姿にバレーの神様を見た。きらきらと輝く、わたしのたった一人の愛しい人。

「わたし、しあわせだったよ」

立ち止まって静かにそう言ったわたしに、彼は一瞬だけ息を止めて、うん、と小さく頷いた。

「徹くんのこと好きになれて、一緒にいられて、これ以上ないくらい幸せだった」

初めて徹くんを見た三年前を思い出す。そうして一緒に過ごした時間に思いを馳せて笑うわたしに、徹くんはぐっと何かを飲み込むような顔をする。

「俺も、名前のこと好き」
「うん」
「ほんとうに、好き」

そうして、一息ついてすべてを吐き出すように彼は告げる。

「ごめんね」

苦しそうに眉を寄せたこの人をずるい人だと詰るのならば、わたしも詰られるべきだ。ずるいのも弱虫なのも、きっとお互い様。
東京と宮城。新幹線ならたった1時間半。だけど絶対的にある距離という壁に四年間も恋人で居続ける自信がない。そして、まだ見えないその先も。曖昧で不確定な未来が怖くて、不安で、手を離すことを選んだのはわたしであり、徹くんだ。この選択が正しいのか間違っているのかわからない。でも、どうしようもなく悲しい、つらいと心が訴えている。その思いを振り切るように徹くんの腕の中へと飛び込めば、ぎゅうと強く抱きしめてくれる。ずるくてごめんなさい。"待ってる"と、その一言を言えない弱虫でごめんなさい。のどの奥でくすぶるそんな言葉たちを押し込んで、口をひらく。

「ね、きっと東京はきらきらしたもので溢れてるよ」
「どうだろ。もしかしたら汚くて嫌なものばっかりかもしれない」
「大丈夫だよ。汚いものもあるかもしれないけど、徹くんならきっと大丈夫。だって、負けたままなんて徹くんらしくない」

全部飲み込んで、ねじ伏せて、そうしてきっと鮮やかに笑う。そのための努力を惜しまない、そういう強さを持っている人だって知ってるから。だから、踏みにじられたりなどしない。バレーを愛する及川徹の美しさは決して損なわれたりなどしない。

「『叩くなら、折れるまで』そう言ったのは徹くんだよ」

だから、大丈夫。徹くんに、わたし自身に言い聞かせるように繰り返す。
そうだね、とわたしの肩に顔をうずめて言った彼がいったいどんな表情をしているのかはわからない。そして、わたしがどんな表情をしているのかもきっとわからないだろう。でも、それでいい。今わかるのは降り積もる真っ白な雪と、徹くんの体温と、お互いの息づかいだけ。まるで世界に二人だけになったみたい。そう思って、静かに目を閉じる。ぽろり、と零れた一粒の涙は降り続ける雪に溶けて消えた。

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