▼ ゆっくり消えてくユートピア

こんなこともうやってられるか!
脳内では罵詈雑言を吐きつつも、表面上はさも冷静そうに名前はゆっくりとテキストを閉じ筆記用具をペンケースへと戻す。鞄の中に机の上に置いたものを全て仕舞い、椅子に引っかけたコートを着込みマフラーを巻くと彼女は一切の未練なく自習室を後にした。

受験生というのは孤独なものだ。
どんなに仲のよい友人だろうが家族だろうが教師だろうが誰もこの真綿でじわじわと首を絞められるような苦しみからは解放してくれない。
“受験は団体戦だ!”と声高々に主張する者もいるがそんなもの大嘘だ。
団体戦なら自分の代わりに椅子に座って試験問題を解いて欲しいものだが、そんなことは絶対に無理だ。結局、自分を救ってくれるのは他でもない自分自身なのである。
名前も模範的な一般受験生として休みの日にわざわざ学校の自習室へと赴き志望校の過去問と対決していたのであるが、一向に進まない問題と動かないシャーペンに嫌気が差したためにもう我慢ならないと校舎から飛び出した。
彼女は今まで勉学をサボっていたわけではない。高校三年になった四月から教師に散々口酸っぱく言われてきたようにそれなりにコツコツ努力はしてきた。行きたい大学だってあるのだ。
だが、そう簡単には行かない。周りも皆努力をしていて自分だけが力をつけているわけではない。大学だって求めている生徒像いうものがある。望んだ全ての者が望んだ大学へ行けるわけではないのである。

昇降口の硝子張りの扉を開けて校舎から出た名前はその冷たい外気に身を震わせた。
思い通りにいかない苛立ちに冬の寒さが拍車をかける。
首の周りのマフラーに顔を埋め、コートのポケットに手を突っ込む。しかしスカートの中を吹き抜ける北風はどうすることも出来ずさらに苛立ちが募った。
こんな寒いところに長々といてたまるかと校門に向けて名前は一人歩く。土曜日のこの時間帯に学校にいるものなど受験生以外では部活に励む生徒くらいだ。グラウンドからは野球部の何を言っているのか聞き取れない掛け声、校舎からはまだまだ息の合わない吹奏楽部の演奏、体育館からも僅かだが声が聞こえる。
ああ何てうらやましい!
そう彼女は思わずにはいられなかった。
部活に全力で打ち込み、受験の心配など当分いらない彼らの生き生きとした姿を想像しただけて羨望と嫉妬がよぎる。
私達はこんなにも苦しんでいるのにどうしてそんなにも希望に満ち溢れているのだ。もっと私達に気を遣え。ああ、でも親はあんまり関わるな。そんなに期待されてもプレッシャーにしかならないよっ。そもそも何でこんな寒い時期に受験があるんだ。寒いおかげで受験日に遅刻したらどうするんだ。周りの景色も枯れた草木ばっかりでテンションも下がる。受験期を定めた昔のお偉いさんは受験生の苦労を考えなかったのか。考えなかったに決まってる。
などと自身の苛立ちを方々へとぶつけていた名前は一つの決意をした。
もう今日は何してもダメだ。家に帰って暖かい部屋でお菓子でも食べながらゆっくりテレビでもみよう。
すると一気に肩の力が抜ける。
そうだ、今日くらい休んでもいいじゃないか。一日くらい大丈夫。自分以外にもだらけている人はたくさんいる。ダメな時は何やってもダメだ。
自分を正当化する言葉が次々と浮かび、彼女の頭の中は家に帰ってからの計画でいっぱいになる。
録り貯めたドラマに、最近気になるマンガ、友達に借りたまま読んでいない小説、昨日父が買ってきたケーキ、雑誌で紹介されたパンケーキの美味しいお店、この前見かけた可愛いブーツ。
あれもしたい、これもしたいと今日のスケジュールがどんどん埋まっていく。
なんなら明日だって休みにしたっていい。
そう思った所で名前は前方からの人影にふと顔を上げた。

「お、苗字」

「あ、木兎」

クラスメイトとの遭遇に思わず彼女は相手の名前を呼ぶ。向こうも同じように少し驚いた様子でその名前を呼んだ。

「何してんの、って部活か。引退したのによくやるねー」

ジャージ姿の木兎にやや呆れたようにそう言うと彼も同様に返す。

「苗字こそ休みの日にまで学校でオベンキョーかー。お疲れさん」

「今日はもう帰るのー」

しかしそこで思い出したように名前は不機嫌になる。

「あーあー。木兎はいいなー!推薦が決まっててー!」

だがそんな彼女の様子に木兎は胸を張る。

「だろ!いいだろー!うらやましかろー!」

「あー!もう!あんたなんか留年してしまえ!」

「おい!大学入る前からそんな不吉なこと言うなよ!」

「うるさーい!」

わちゃわちゃと下らない言い合いをしていた二人であるが木兎の一言で名前は突然だまりこんだ。

「つーか、苗字なら合格出来るって!自信持てよ!」

冗談めかして笑いながら言っているせいでそれが本心からのものか分からないが、それは確実に名前の心を揺さぶった。
ついさっき、あまりにもテキストの問題が解けず受験勉強に嫌気が差して逃げ出してきた彼女には大打撃と言っても間違いないだろう。
やっとの思いで名前は重い口を開いた。

「…何て言うかさ、もう第一志望じゃなくてもいい気がしてきた。難易度下げたら行けるとこたくさんあるし」

生気なくそう言う彼女に対し木兎はやや大袈裟過ぎるほどに驚く

「は!?何でだよ!?」

「いや、何で木兎がそんな驚いてるわけ?」

名前は変なものでも見るような目を木兎へと向けた。
別に彼女がどの大学へ行こうが彼女の勝手である。
しかし木兎は非常に慌てた様子で手を世話しなく動かす。

「いや、だって、お前!えー!?」

そして木兎は名前の目の前で頭を抱えた。

「ちょっ、木兎!?」

事情の飲み込めない名前が木兎の肩に手を置く。

「え、ホントにどうしたの!?」

すると木兎は頭を抱えた状態で名前へと目線を向けた。眉をひそめ、その表情は苦痛と悲しみに染まっている。

「…木兎?」

思わず名前は優しい声色で名前を呼んだ。
木兎はしばらくの間無言であったが、観念したかのように腕を下ろすと肩に乗っていた名前の手を掴んだ。
名前が何か言おうと口を開くが木兎はそれよりも早く言葉を口にする。

「俺が推薦決まったとこ苗字の第一志望と同じ大学」

「…はい?」

「あー、この前たまたまお前の模試の結果が見えてさ、大学は別々になると思ってたからすげー嬉しくて」

名前の手を取る木兎の手に力がこもる。
確かに名前と木兎は偶然にも高校三年間同じクラスで過ごした仲であった。三年間も同じクラスならそれだけ関わる機会というものも多い。彼女自身一番仲のよい男子は木兎だと思っているし、自惚れでなければ木兎が一番つるんでいる女子というのは自分ではないかと思っている。
テスト前には勉強を見てやったし、体育祭や文化祭ではクラスを盛り上げたし、修学旅行ではまあちょっといい雰囲気になりもした。
木兎と過ごす日々は本当に楽しいものであった。
しかしそれは期限付きのもので、夢のような時間はもう終わりを告げようとしている。
高校を卒業しその先へ進むというのはつまりそういうことだ。
そう、確かにそう苗字名前は思っていたのだ。

木兎は名前の手を離すと、彼女の両肩へと手を乗せて真剣なそれでいて少し泣きそうな顔で名前を見つめた。

「苗字、頼む!俺と同じ大学に来てくれ!」

これはいったい全体どういうことだ。
名前は妙に他人事のように思えて仕方なかったが、それでも言葉を返す。

「テスト前にヤバくなったら助けて欲しいから?」

「ちげぇよ!あ、いや、まあ、そん時は助けて欲しいけど…」

段々語気が弱くなる木兎を見ている名前であったが、

「木兎」

「え、」

何?と聞こうとしたのだろう。しかし名前が木兎に放った一撃の方が早かった。
肩に置かれた木兎の手を振り払うように名前は万歳の要領で自分の両腕を振り上げる。油断をしていたのか木兎の手はあっさりと離れた。
唖然とする木兎をよそに名前はその場で回れ右をすると、

「勉強してくる!」

そう言い残しもと来た方へと走り去った。
へ?という間抜けな声も聞こえたような気もしたが彼女は完全に無視をした。



彼と過ごす高校生活はあと少しで終わる。それは避けようのないことだ。あの甘酸っぱい日々は全て過去になり二度と返ってはこない。泣きたいほどに悲しいことだ。
でも、それは始まりに向けた終わりなのだ。
苗字名前と木兎光太郎の関係性における通過点のうちの一つだ。

名前は走る。
先程まで煩わしかったものが全てが気にならなくなった。
部活に励む後輩たちよ、精一杯打ち込め。
お母さん、お父さん、いつも応援ありがとう。
寒いのだって身が引き締まっていいじゃないか。
昔の偉い人ナイス。
この殺風景な景色だって次の季節に向ける準備中なのだ。
名前は走る。
もう休んでなどいられるものか。
本番までの残り時間は少ない。

名前は走る、彼の待つ輝かしい未来へと。

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